「秩序からはみ出た悪所」である遊郭は、なぜ人々を魅了したのか?

令和の今、改めて「遊郭」を見つめ直す
「遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」――。江戸時代、家族が生き残るために差し出された遊女たちは、どのような世界を生きていたのか。そして、令和の現在になって「遊廓の歴史」を見つめ直す意味とは何か。今回は、最新刊『遊廓と日本人』の第二章「遊廓とはどういう場所か?」から、遊廓が人々を魅了した理由を論じる。

遊廓の空間

さて、では遊廓とは実際にどういう場所だったのでしょうか?

吉原遊廓は、畑の中に人工的に作られた四角い町で、現代で言えばテーマパークといったところです。遊廓の「廓(かく、くるわ)」とは、囲われて独立した区域という意味です。

江戸時代の浅草に、寺の領地や入会地(さまざまな村の共有地)が集まった地域がありました。現在の東京都台東区千束四丁目にあたります。そこに造成されたのです。正式には「新吉原」と言われました。なぜ「新」なのかというと、第一章でも述べたように最初は現在の日本橋人形町に造られ、そこから浅草に移転したからです。人形町の遊廓を「元吉原」と呼びます。

新吉原の大きさは、時代によって変わりますが幕末から明治期では、地図で見ると約270メートル×360メートルです。とても小さな町ですね。町の周辺には、まるで城廓のように堀がありました(図2-1)。しかし江戸城の堀のように二重にはなっていませんし、ごく狭い堀です。幕末では360センチほど、明治末にはその四分の一になり、やがて消えました。明治時代に書かれた樋口一葉の『たけくらべ』には、跳ね橋を使って渡るシーンもあります。

図2-1 1984年・葭之葉会発行の吉原地図『吉原現勢譜・今昔図』

その堀で囲まれた廓の中に、遊女たちを抱えている抱え主が経営する、傾城屋、女郎屋などとも呼ばれていた遊女屋(妓楼)がありました。江戸初期から1760年ごろまでは挙屋(揚屋)という、遊女を遊女屋から呼んで遊興する店がありました。やがて吉原では消滅し、遊女屋が挙屋を兼ねました。

そして客の予約や食事や休憩の場である「茶屋」という重要な場所がありました。そこで客は着替えをしたり、食事をしたり、芸者を呼んで宴会をしたのです。その後、遊女屋に上がって、さらに遊女と飲み、床をともにしました。

これらの組織が、遊廓と遊女の美麗や品格や高度な遊興を維持するために、呉服屋、香木屋、髪結い、櫛こうがい業者、生花業者、化粧品業者、芸者衆、仕出屋、絵草紙屋そして多くの従業員に金を支払い、そのお金が江戸を巡ったのです。

客は遊女に会うためにその遊女に支払っているつもりですが、抱え主はすでに遊女の家族にまとまった金を渡しており、その借金の返済金を、客の支払いから計算します。返済金が借金の額までいけば、遊女は遊廓を出て行くことができました。逆に言うと、それまでは厳しく監視され、出て行くことはできませんでした。

つまり、大きなお金が動くということは、そのお金に縛られている人がいるということです。それが遊女だったのです。今私たちは「人権」という、とても大事な思想を持っています。

個人の人権は人類の普遍の価値なのです。お金が巡って都市全体を豊かにするのは良いのですが、そのために一時的にせよ組織から自由を奪われる人がいる、ということは、近現代社会では許されていません。現代では労働基準法にも売春防止法にも抵触し、何よりも基本的人権の侵害になります。

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