小御所会議の途中で突然口を閉ざした容堂――何が彼を沈黙させたか?

岩倉具視に猛烈に噛みついた山内容堂
新政権発足の日の夜に開かれた小御所会議。山内容堂は他を圧する「大論」を吐いて岩倉具視に噛みつき、両者の間に激論が闘わされたが、休憩の後、容堂は突然口を閉ざしてしまう――。何が容堂を沈黙させたのか?
幕末維新史の知られざるキーパーソン、土佐藩の名君・山内容堂に焦点を当てながら、歴史の転換点の実相を描き出した最新刊『酔鯨 山内容堂の軌跡 土佐から見た幕末史』から、小御所会議の容堂について述べた箇所を抜粋して公開します!
 

議定職に就任

こうした経緯をへて王政復古クーデターは慶応3年(1867)12月9日に決行されることになった。前日に開催された朝議の席には、諸藩の重臣らが召集され、長州処分問題等が話し合われた。

そして、この席で長州藩主父子および三条実美らの官位復旧・上洛許可と文久2年(1862)以来勅勘を蒙り政治活動をなしえなかった公家全員の赦免が決定をみる。ついで摂政以下が徹夜の朝議を終えて退朝したあと、入れ違いに参内してきたクーデター派の公家・諸侯および御所内に留まった公家・諸侯によって会議(第1回小御所会議)が開催された。

この会議のあと、旧来の朝幕双方の体制を廃止し、総裁・議定・参与の三職から成るメンバーが、これから新たに発足する新政府(王政復古政府)の構成員となることが宮・堂上らに対して宣言された。

すなわち、摂政・関白職ならびに将軍職および京都守護職・京都所司代などを廃止することを謳った「王政復古の大号令」が勅諭というかたちで出される(これを受けて、容堂は春嶽らとともに議定職に就任する)。

そして、新政権が発足した、この日の夜、徳川慶喜の処遇ならびに新政府を支える財源をどこに求めるか、会・桑両藩主の退職と両藩兵の帰国をどう実現するかをめぐる話し合いが宮中の「小御所」で開催された。第2回目の「小御所会議」である(以下、「小御所会議」とは、すべてこの第2回目の会議を指す)。

小御所会議にまつわる謎

「小御所会議」に関しては、これまで明治期にできあがったイメージがずっとわれわれの頭を支配してきたと言ってよい。たとえば、尾崎三良が明治期の終盤段階で語った回想(「尾崎三良君談話」)には、次のような対立の図式が描かれている。

それは、会議の席で容堂および後藤らと岩倉および大久保・西郷らの間で「余程の激論であった様子」だとするものであった。そして、さらに「激論」の中心が岩倉と容堂の二人で、最終的には「岩倉の説が勝って山内などは席を蹴立てて帰った様子」だとする。

「小御所会議」に出席していなかったものの、のち明治政府の官僚となった尾崎は、大雑把に記せば、会議で「討論」を展開した主たる関係者を2つのグループに分けて把えたのである。

そして、このような理解の仕方は、ごく一般的なものであった(『島津久光公実紀』三などは、それぞれ、容堂・春嶽・徳川慶勝・後藤のグループと、岩倉・大原重徳・島津忠義・大久保のグループに分けている)。

だが、実際のところ、西郷は会議に出席しておらず、また後藤と大久保の両者も、会議の席で発言しうる立場にはなかったとの福岡孝弟の証言(「大政奉還前後の事情」)も残されている。すなわち、これからおいおい検討を加えるが、幕末維新史上でもことさら重要な位置を占める「小御所会議」には、いまでも十分に解明しえない疑問点が残されているのである。

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