タブレットやゲームは与えていない

‟子供のため”という言葉は昨今では忌み嫌われることも多くて、自分の理想を押し付ける親や自分の我慢を子供のせいにするときに用いる言葉のように扱われることもあるけれど、でも、やっぱり、私は‟子供のため”に食事を用意するし、‟子供のため”に頭を悩ませるのだ。

「子供がかわいそう」という言葉は今の私にとって最もダメージの大きい言葉だ(陰で言われるパターンだと、「子供が心配」というのもなかなかのワードですね)。

デジタル教育についても、まさに‟子供のため”にはどうすればよいのか悩んでいる。私が長男を産んだころには、スマホ育児が批判されていて、子供にデジタルデバイスを与えることは、親が楽をするためという見方が多数派だったように感じる。

でも最近では、タブレットを用いた教育コンテンツもどんどん増えているし、「子供が見たがるものを親が制限することはむしろ興味関心の幅を狭めることに繋がる」といった意見を目にすることもあり、新しい時代の子育てについて私も考えをアップデートしていく必要があるのだろうと考えているところだ。

今、我が家には子供たちが自由に使えるタブレットやゲーム機はない(オンライン授業などは私のPCを使うか、とても古いタブレットが一台あるのでそれを使います)。また、私や夫のiPhoneを子供たちが使うことも基本的にない。

小さな畑を借りて野菜の栽培なども楽しんでいるそう。写真/著者提供
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こう言うと、強固な教育方針があるようだけれど、今はそういう状態に落ち着いているということであって、常に試行錯誤の状態だ。次男が幼稚園に上がる前くらいだったか、外食の際にiPhoneでアニメなどを見せるということを試みたことがあった。確かに子供は喜ぶし、親はいくらかのんびりもできるのだけれど、キリがなくなる感じが嫌だったのと、話しかけても顔を上げない子供たちに寂しさを感じたので、習慣として根付くことがなかった。

(その代わり、折り紙とモールと小さいノートを持ち歩いています。長男は、最近は自分で読む本を持ち歩くようになりました。漫画を読んでいるとやっぱり顔を上げてくれないので、寂しい気持ちになるのだけど、画面に入り込んでいる感じよりはまだこちらの声が届くかなと感じています)

でも、いつまでもこのままではいられないなというのは感じている。うまく使えないから排除するというのでは思考停止だし、うまく使っていく方法を考えることが、これからの時代を生きる子供たちを育てる親として必要なのだろう。