遊廓は「人権無視の悲哀の場」か、それとも「日本文化の聖域」か?

説明に困らないための「遊廓入門」
「遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」――。江戸時代、家族が生き残るために差し出された遊女たちは、どのような世界を生きていたのか。そして、令和の現在になって「遊廓の歴史」を見つめ直す意味とは何か。田中優子『遊廓と日本人』より「はじめに」を公開いたします。

ジェンダーから見た遊廓の問題

この本は「遊廓」についての本です。日本の遊廓は一五八五年から一九五八年まで三七三年間にわたって続きました。それほど長い歴史を持ってはいるのですが、ここでは一種の街である「廓」を形成し、日本の文化に深く関与した江戸時代(一六〇三〜一八六七)を中心にします。また、全国に二五ヵ所以上あった公認遊廓の中でも、江戸の吉原遊廓を事例として、皆さんに遊廓を案内します。

さて、本論を始める前に読者の皆さんにお伝えしたい大事なことがあります。それは、「遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」ということです。

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なぜなら、遊廓は江戸時代の文化の基盤であり、力の源泉でもありましたが、とても大きなお金が動く世界だったからです。これから遊廓の一年、その年中行事、遊廓の一日、遊女とはどんな人たちか、遊廓に来る客のことなど、さまざまに述べますが、それはたいへん豪奢な世界です。その豪華と活気を支えるために、多額のお金を払う人たちがいました。大店の経営者や大名たちで、「お大尽」と呼ばれました。

お金を払う人たちがいるということは、お金を受け取る人がいたということです。お金を受け取るのは遊女ではありません。遊女屋(妓楼)の抱え主(経営者)でした。もちろんその他の組織もお金を受け取るのですが、それについてはのちほど詳しく書きます。

なぜ遊女はお金を直接受け取れないのか?それが、「遊廓は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」ことの理由です。遊女はその家族が抱え主から「前借金」をし、その家族のひとりである女性が遊女となって借金を返す仕組みでした。

したがって、借金返済が終わるまでにやめることも逃げることもできませんでした。厳重な監視下に置かれることもありました。売買されるわけではないので奴隷ではありませんが、「借金のかた」「抵当」として自由が奪われていたことは確かで、そのような方法は人権侵害にあたります。

なぜこの方法によってしか遊廓が成り立たなかったのか、なぜ女性の自由な働き方で経営ができなかったのか、それは単に経済の問題としてではなく、ジェンダーの問題として考えなくてはなりません。結論から言えば、多くの仕事の選択肢があって、遊女もそのひとつだった場合、ほとんどの女性は遊女を仕事として選ばないであろう、ということです。

第一に、遊女として働いても、キャリアの積み重ねになりません。遊女として働いていた履歴は次のステップにつながるどころか、むしろ全く異なる仕事に就くことが困難になるでしょう。同じ世界の中で、たとえば「遣手」というマネージャーになったり貸座敷を経営したり、遊女屋そのものを経営することはあり得ますが、外に出ることは難しいです。

第二に、仕事の能力はあるていど年齢とともに上がっていくもので、社会の変化によってそれが難しくなった場合も、学び直しによって新たな能力を身につけることができます。しかし遊女という仕事は年齢が若い時しか価値を認められず、年齢によって価値が落ちていきます。これでは成長の意欲につながりません。

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