2021.10.24
# ビジネス

池袋マルイが閉業…激変する西口に「魔窟」と呼ばれたマーケットがあった

戦後の街の記憶はほぼ残されていない
フリート 横田 プロフィール

山手線の外側、という印象だった

私が書くとすれば、それでもカネがロクになくたって、頑張れば小さな店を持ち、暮らせる一角だった、と書こうか。洪ほどの上昇気流にのれなくても店は持てる場合があった。洪のところは物販店が多かったものの、全体としては一大繁華街に育っていったマーケット。

同時に住居も増殖していた。四マーケット中、最大規模のものが500軒ものバラックの並んだ「戦災復興マーケット」で、これを昭和25年ごろ調査した記録(※6)によると、25歳以下の住人が多く、うち3割は15歳以下の子供だったとしている。若く、資力や生活力のない人たちが住み、仕事をする一角だったのだ。この時期から10年ほどあとの風景を記憶している人々に、まだ出会えた。

「美人街」のアーチがかかるバラック街。昭和37年撮影(提供:豊島区立郷土資料館 高木進一氏)
 

「昔はね、東口と違って西側は『山手線の外側』という感じで、まあ闇を感じることはありましたね」

戦前からその西側で暮らす古老はまずそう言って笑い、私に教えてくれた。小さな小屋が抱き合うように並び、お互いの軒と軒が触れ合いそうな隙間に路地が通っていた昭和30年代のバラック街を回想するうち、記憶が鮮明になってきたようだ。

「あっそういえば」と言いながら目を見開き、身を乗り出す。ごく狭い路地がうねる中をゆくと、「フッと、少し広い路地に出るんです」。この迷宮は子供らの遊び場であり、抜け道でもあった。そんな場所で出くわす人は。

「最初は本当にびっくりしたね。シミーズ一枚、頭にタオル巻いて。それで七輪を出してね」

路地にしゃがみこんで煮炊きする若い女と、鼓動を速くする若き日の古老。バラック街は、内部に「美人街」のアーチかかる一角を擁し、大勢の女性が働き、暮らしていた。夜の稼ぎどきを前に、夕餉を用意していたのかもしれない。同じく戦前から、バラック街のすぐ近くで暮らしてきた別の古老の記憶も鮮やかである。

「飲み屋だけじゃなくてね、古道具屋だとか模型屋だとかもあってさ。飲み屋はね、客が便所に立つと店員がついていくの。飲み逃げされないようにね(笑)。ヒロポン(覚せい剤)打つ人も当たり前にいた。外から見たらウワッ、って思うだろうけど、地元からしたら普通の暮らしだったよ」

※6 「池袋戦災マーケットの実態調査」立教大学文学部社会学科研究室

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