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池袋マルイが閉業…激変する西口に「魔窟」と呼ばれたマーケットがあった

戦後の街の記憶はほぼ残されていない

かつて「城北の魔窟」と言われた池袋西口。「西口マーケット」と呼ばれる巨大なヤミ市が形成された一角には、台湾人青年実業家・洪仁栄の影があった。焼け野原になった池袋にバラックを建て、次々と商売を成功させ、テキ屋とも切った張ったの立ち回りを続けてきた男の存在が、現在の巨大ターミナル駅の街並みへ繋がっていく。

前回記事:池袋西口「戦後の巨大マーケット」で荒稼ぎした「台湾人実業家」の正体

「曖昧」の上に形成された街並み

土地をカタパルトとして飛び出して行った男・洪仁栄がいた同じ地面の上には、バラックの影で息をひそめる者たちの魔窟が育まれていった。

魔窟。これはゴシップ誌上に踊った煽り文句じゃない。「ヒロポン密売、ポン引、夜の女などの各グループ」が当局の手入れを受けた、と新聞(※4)からしてこの一帯を「城北の魔窟」「黒い地帯」などと平気で書いた。

当初戦災者のマーケットだったものは、だんだんに変質していく。素人商売はまあなかなか続かず、入居者はめまぐるしく入れ替わってゆく。こんな状況は「又貸し」も生む。終戦翌年には区画整理の対象地に引っ掛かりながら権利者がどんどんと増えてゆき、立ち退きや再開発の足を引っ張ってもいった。

1962年に開業した東武池袋/photo by istock
 

最終期には1000軒ほども店があったというが誠に曖昧で、これと確定的な記録も図面もない。一年の約束のはずが十年以上、国有地上に存続し続けたバラック街という存在そのものが、曖昧の上に屹立していたと言っていい。

欲望や憂さ晴らしの需要はつねに、厳として街に存在するが、道徳や法に配慮しながら人の心に巻き起こるものではない。混乱期であろうと人間はかわらない。この時代も人に言われぬ欲があったが、解消場所は街のオモテ面に存在することは許されなかった。

一切を、曖昧なマーケットが引き受け、包み隠した。ただし、魔窟が魔を作り出すのではない。欲がバラック街の人々に魔を作る業を背負わせたといったほうがいい。各種の商売を手引きして利益を上げるグループも路地の内部でうごめいていたが、息をひそめて暮らした圧倒的多数者は、ただただ、「持たぬ人」だった。

曖昧さは確かに、彼ら彼女らも曖昧に包み、守るという、二つ目の機能を持っていた。1.5坪から3坪の小さな店で息をする人々のバラックの群れを水上勉は「蜂の巣」と書き、五木寛之はアルジェのカスバを思わせる」(※5)と書いたバラック街。

※4 読売新聞(下町版)昭和29年6月2日
※5 「飢餓海峡」水上勉著(新潮社)、「青春の門」五木寛之(講談社)

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