日朝関係改善の糸口「日本人妻の里帰り事業」が再開されない根本的な原因

解決可能なことから取り組むべきだ
伊藤 孝司 プロフィール

北朝鮮へ戻った平島筆子

「脱北」して日本へ一度は帰国したものの、北朝鮮へ戻った日本人妻がいる。平島筆子さん(1938年生まれ・2018年死亡)だ。

平島さんは、東京都葛飾区新小岩のあんみつ屋で働いていて、電気工の朝鮮人男性と出会う。平島さんの両親は強く反対したものの、二人は1959年12月の帰国船で北朝鮮へと渡った。

平壌で生活を始めて10年ほどしたころに突然、夫は行方不明になる。頼りにしていた夫がいなくなり、日本の家族からの仕送りもなかった平島さんの生活は苦しくなった。

「日本にいる二人の妹に会いたい、両親の墓参りがしたい」という思いが募っていた時に、日本人妻を「脱北」させて高額の利益を得ようとするブローカーに声をかけられた。そして2002年11月に中朝国境の川を歩いて中国へ渡り、翌年1月に日本へ帰国。

落ち着いたのは、かつて暮らしていた葛飾区。そこを選挙区とする平沢勝栄衆議院議員の秘書・沖見泰一さん(67)が、世話をすることになった。平島さんは、生活保護の支給額が減らされるのを承知で仕事に出るほど元気だった。

ところが北朝鮮から、長男が死亡したという連絡が入る。

「平島さんは長男の嫁と子どもたちが心配になり、神経性胃潰瘍になったんです。寿司が大好きだったのですが、それも食べなくなりました」と沖見さんは振り返る。

還暦祝いでの家族写真(平島さん家族提供)

平島さんは、北朝鮮の家族の元へ戻ることを決断。2005年4月18日、北京の北朝鮮大使館で記者会見を行ない「金正日(キム・ジョンイル)将軍万歳!」と叫んだ。北朝鮮へ戻ってからの平島さんは優遇を受け、家族たちと平壌での生活を開始。まだできていなかった還暦祝いも開かれた。

記者会見から2ヵ月後に、平島さんは沖見さんへ電話をかけてきた。それからは、沖見さんは毎月決まった日に平島さんへ電話をし、自費で医薬品などを送り続けてきた。肉親でもできないことである。その理由を聞くと、「日本にいた時の交流で情が移ったから」と語った。

 

私は平島さんのインタビューをするために、2018年2月に訪朝。だが、平壌へ着いて知らされたのは平島さんの急死だった。平島さんは、初めて会う私と話をすることを楽しみにしていたという。

朝鮮人の夫、日本の妹たち、北朝鮮の子や孫という家族への思いから、危険を顧みずに二つの国を行き来した平島筆子さん。改善されないままの日朝関係に、大きく翻弄された人生だった。

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