日朝関係改善の糸口「日本人妻の里帰り事業」が再開されない根本的な原因

解決可能なことから取り組むべきだ

【前編『62年前に始まった北朝鮮への在日朝鮮人「帰国事業」とは何だったのか』から続く】

受入時の北朝鮮の状況

1959年から始まった北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への帰国事業は1984年7月の第187次船まで続いたが、帰国者の80パーセントにあたる7万4779人は1961年末までの約2年間に渡航。帰国船は月に3~4回も清津(チョンジン)へ入港し、最盛期には毎週1000人規模の人が到着した。

帰国者たちは歓迎行事の後に、数日間を清津や咸興(ハムン)に滞在し、履歴書や職業・居住地の希望を提出。面接を受けて、行き先が決まった。だが受け入れ側が、押し寄せるようにやって来る人々への対応が追いつかない状態に陥っていたため、自分の希望と異なる地域や職場・学校へ配置される人たちが出たのである。

清津港と市街地(2012年8月31日撮影)

そもそも帰国者の多くが低所得者で、半数以上は財産をほとんど持たずに北朝鮮へ渡った。北朝鮮は帰国希望者を、審査や選別することなく無条件ですべて受け入れた。また帰国者の世話をするために、多数の人員を用意しなければならなかった。帰国者に十分な対応ができるような状況ではなかったのだ。

そして資本主義国からやって来た帰国者は、「労働力」になるよりも負担の方が大きかった。

「運だから仕方ない」

「こちらへ来た当時は朝鮮の言葉も文字もわからないし、日本人はいじめられるのではと不安でたまりませんでした。ところがみんな優しくて親切で、お店へ行くと(行列が出来ていても)『日本から来たのだから最初に買いなさい」と言ってくれたんです」

日本人妻の中本愛子さんはこう語る。同じような話は他の日本人妻たちからも聞いた。

彼女たちが北朝鮮へ渡った時期は、まだ朝鮮戦争の傷跡が残っていた。

「田んぼに爆弾の大きな穴が空いていて、不発弾が見えたのでウワーと思ったんです。戦争復興のために私も動員され、初めてスコップを持って作業をしました」

 

しばらくそのようなことをしていた中本さんは、働きに出ることにした。

「編み機でセーターを編む職場です。ノルマを200パーセント達成したのでみんなから栄誉だと言われ、温泉旅行にも行かせてもらいました」

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