イラスト/植田たてり

『苦海浄土』は声に出して読むと、黙読とは別種の世界が浮かび上がる

「宗教の本質」とは? 往復書簡 第三信・B
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い、当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について、書簡を交わす本連載。前回の、宗教と「発声する」ことの深いつながりについて書かれた釈氏の書簡を受けて、若松氏はどう応えるのか? 返信を公開する。

第一信・Aはこちら

痛みの本質

ご返信遅くなりまして申し訳ございません。じつは、椎間板ヘルニアを発症しまして、寝るほかないという生活を送っておりました。今もその渦中なのです。
また、別な機会に書きたいと思いますが、痛みの経験というのは、じつに意味深いものだと感じました。同じ痛みでも、人は、独りでいるとき、いっそう苦しく感じます。

痛みの本質は、身体だけに還元できない。心の問題でもあります。さらにいえば心身一如であることを超え、魂と呼ばれる領域にも関係することだと思いました。

中川米造さんのお名前をとても懐かしく拝見しました。ご存知のとおり、中川さんはホリスティック医学にも造詣が深い方でもいらっしゃいました。

書き手になる以前私は、薬草を商う仕事に就いておりましたので、ホリスティック医学、代替医療の世界は身近にあり、中川さんのご本も読んでおりました。身の回りには中川さんと親しくされた方もいて、とにかく人格が優れた方だったと伺っていたのが強く記憶に残っています。

若松英輔氏
 

詠まれる言葉と書かれる言葉

さて、今回から「発声する」をめぐってとのこと、まさに宗教とは何かを考える上で、極めて重要な動詞ですね。

お書きくださったように「音」の力には凄まじいものがあります。むしろ、そこにこそ宗教言語の現場があるといってもよいと思います。それは詩の世界にもいえます。もともと歌は声に出して詠まれるものでしたが、現代では多くの場合、言葉で書かれるものになりました。まず、詠まれる言葉と、書かれる言葉が同じであるはずかありません。

こうした問題を考えるとき、想起されるのは、親鸞の『教行信証』です。私はこの聖典を折にふれ、眺めているだけなのですが、そこにある言葉が、単に書き記されたのではなく、彼のなかで無音のまま、あるときは声に出して唱えられるようにして紡がれたであろうことは分かります。言葉は発せられた場所に届くという習性があります。親鸞は「あたま」だけで文章を書くことはなかった。そうしないことが、彼にとって「書く」不文律だったのではないでしょうか。

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