「良かれと思って」先回りした手助けが、認知症当事者の夢を奪う

認知症の私から見える社会(11)
丹野 智文 プロフィール

あきらめてしまう環境

当事者に「これから何をやりたい?」と訊いた時、散歩したい、電車に乗りたいという話が出てきます。「本当にそうなのだろうか?」と感じています。

認知症になると、海外旅行に行きたいなどと家族に言うと、「あなたは認知症なのだから一人では行けないでしょ」と言われてしまいます。もう、一人では何もさせてもらえない生活となっているのです。だから、「これから何をやりたい?」と訊かれても管理・監視できる範囲内での発想しかなくなってしまうのです。そして、できていたこともできなくなっていくのです。

私は当事者がギターをやりたいと言ったら、目指すはコンサートと言ったり、山登りをしたいと言ったら富士山に登ろうと言ったりしています。

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なぜそのようなことを言うのかというと、それは当事者も支援者も認知症になると誰でも簡単にできる低い目標を立てようとするからです。できなくてもよいのです。どうやったらできるかを想像するだけでもワクワクするのです。

支援者は「言った限りは成功させないといけない」と考えるので、「責任が持てないのでそんな安易なことは言えない」と言います。でも、夢などを語る時に責任って必要ですか? なぜ、成功しないといけないのでしょうか。普通の人の夢もほとんどが成功しないと思うのです。

 

認知症になる前にサッカーを教えていた先生が、認知症の診断を受けた後、私が「何をしたい?」と訊いた時にサッカーをやりたいと言ってくれました。その時に女性の支援者が「私たちにできるかしら」と言ったのです。自分たちができる範囲で考えようとしているのです。

私はそれは違うと思うのです。もともとサッカーを熱心にやっていた人が、未経験者とやって楽しいと思うでしょうか。その人がサッカーチームでボールを蹴るためにはどうしたらいいのか? それを一緒に考えることが大切なのに、自分たちが相手してあげようという発想が違うのではないかと思うのです。支援者のできる範囲だけで考えるから、当事者は中途半端でやりたくなくなるのです。そしてこうしたことが続くと、管理された範囲の中でしかできることを考えられなくなってしまうのです。

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