2021.09.20

似ているものへの選好?

「社会性の起原」94

「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。講談社のPR誌『本』に掲載されていましたが、85回からは場所を現代ビジネスに移し、さらに考察を重ねています(これまでの連載はこちらからご覧になれます)。

“shibboleth”と言ってみよ

初期人類の原初的な道徳は、直接的な二人称の関係(「間身体的連鎖」)を基礎にして成り立っていた。しかし、大規模な部族組織を営む現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)にとっては、このような原初的な道徳では不十分だ。道徳は、十分にはよく知らない他者に対する信頼を、そして、そのような他者からの信頼を保証するものでなくてはならないからだ。道徳はヴァージョンアップされなくてはならない。ヴァージョンアップに必要なものは何か。

それは、直接的な協力関係――間身体的連鎖――の機能的な代替物である。原初的な道徳において間身体的連鎖が果たしていた役割を担う要素が必要だ。しかも、それは、利他性の範囲を拡大するように働かなくてはならない。すなわち、第一に、同情の対象となる他者の範囲を、第二に、公平に対すべきであると見なされる他者の範囲を、直接の対面関係を超えてスケールアップするのに貢献する作用素でなくてはならない。とりわけ、後者(公平性)が重要だ。仮に深い同情心を伴っていなかったとしても、その他者に対して公正・公平でなくてはならないとする意識と、それに合致した行動があれば、道徳は機能していることになるからだ。

〔PHOTO〕iStock
 

間身体的連鎖に代わる要素とは何か? この点については、先行説の中に、すでに回答が用意されている。他者と自己との間の類似性、それが答えである*1。人間は、何らかの意味において、自分と類似していると見なしうる他者に対して、ポジティヴな――道徳的に信頼できる――つながりがあると感じる傾向がある。類似性は、信頼できる内集団(自分と同じ集団)のメンバーであることの「しるし」となる。そのため、人はしばしば、仲間として受け入れてもらいたい他者たちに対して、類似性を――自分があなたたちと「同じ」であることを――あえて示そうともする。

類似性は、非常に多様な仕方で――ほとんどあらゆる仕方で――示される。が、原初においては、類似性は行動に関するものだったと推測するのが理にかなっている。私と同じように話す他者、私と同じものを食べる他者、私と同じように調理する他者、私と同じやり方で狩猟する他者、等々。そのような他者は、同じ部族の仲間として信頼することができる……というわけだ。

旧約聖書に由来する “shibboleth” という語がある。士師記ししきによると、紀元前十三世紀頃、ギレアド人は、エフライム族との闘いに勝った。闘いの後、逃げ遅れたが、なんとか生き延びた一部のエフライム族の人々が、ヨルダン川を渡って故郷へと戻ろうとして、渡場のギレアド人に――自分がエフライム族だということを隠して――「渡らせてほしい」と依頼したとき、ギレアド人は、簡単なテストで、依頼人がエフライム族かどうかを判別した。相手に “shibboleth” というヘブライ語の単語(穀物の穂を意味する語)を発音させたのだ。古代エフライムの言語には、 “sh” にあたる音がないため、エフライム族の人は、この語がうまく発音できない。「シボレテ」と発音すべきところ、「セボレテ」となってしまうのだ。このやり方で、四万二〇〇〇人のエフライム族難民があぶり出され、殺害された、と聖書にはある。「われわれ」と同じように話すことができない者は、「敵(外集団)」に属している、と見なされたのだ。

「私」、あるいは「われわれ」との類似性は、個人的にはよく知らない相手を、道徳的に信頼できるかどうかを決定する指標になる。人間は、自分と類似した者を好み、類似した者により共感し、類似した者の方に対してより公正であろうとする。また、私は、自分に類似した他者の方が、私に深く同情し共感してくれると予想し、また類似した他者の方が、私に対して公正であるだろうと期待もする。このことは、ほとんどの人が、個人的な経験からも納得するところだろう。

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