王名を検討することで、5・6世紀の王宮の実態が明らかになる

新たな方法論
古市 晃 プロフィール

歴代遷宮論は成り立たない

しかし結論からいえば、歴代遷宮論は成り立たない。歴代遷宮論が依拠するのは記紀の宮名だが、これが今みるような形にまとめられたのは7世紀後半、天武てんむ朝のことと考えられるからである(北村優季「記紀にみえる日本古代の宮号」)。

たとえば継体天皇の宮を、記紀は磐余玉穂宮いわれのたまほのみやと記す(『古事記』は伊波礼之玉穂宮)。一方、7世紀には成立していたと考えられる聖徳太子しょうとくたいし厩戸王うまやとのみこ)の伝の一つ、「上宮記じょうぐうき」には、継体の宮を「伊波礼宮いわれのみや」とのみ記し、玉穂の号を記さない。玉穂は、稲穂の豊かな実りを表す美称(佳号ともいう)と考えられる(表1)。

表1 歴代天皇の宮名
(※異同ある場合のみ『古事記』の記載を記した)

記紀の宮名が、実際にはそのままの形では存在しなかったことを示す事例として、7世紀の飛鳥の諸宮がある。7世紀の飛鳥には、舒明じょめい天皇の飛鳥岡本宮あすかのおかもとのみや皇極こうぎょく天皇の飛鳥板蓋宮あすかのいたぶきのみや斉明さいめい天皇の後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみや、それに天武天皇の飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやが置かれたとされ、それぞれ比定地が求められてきたが、発掘調査の結果、これらの宮はいずれも同じ場所に営まれたことが明らかにされている(亀田博『日韓古代宮都の研究』、小澤毅『日本古代宮都構造の研究』)。

岡本は飛鳥の岡(古代寺院の岡寺が所在する丘陵)の麓という所在地、板蓋は屋根のき方、浄御原は宮の清浄な状態を指す語であり、それぞれ呼称の原理が異なるにすぎない。宮名は異なっても、共に飛鳥をつけて呼ばれるこれらの宮の所在地は同じなのである。5・6世紀の宮であっても、一度置かれた王宮は、そう簡単に廃絶することはなかった。

7世紀後半から8世紀初頭にかけて、かつての王宮の地が再び利用されたことを示す記述が、『日本書紀』にみえる。持統じとう天皇4(690)年には泊瀬はつせ(長谷)への行幸記事がみえるが(同年六月辛亥条)、これは長谷の宮を指しているとみてよい。

大宝2(702)年には、「二槻離宮ふたつきのかりみや」の修繕が行われている(『続日本紀』同年三月甲申条)。二槻の表記からは、斉明天皇が作らせたという、多武峰とうのみねの上の両槻宮ふたつきのみやと、用明ようめい天皇の宮としてみえる磐余いわれ池辺双槻宮いけのべのなみつきのみやという二つの候補が浮かぶ。

斉明の両槻宮は高殿を示す「たかどの」とも記され、道教の施設を指す「天宮」とも記されるので、宮殿というよりは宗教的な施設であった可能性が高い。二槻や双槻の表記は、古代に神聖視されたケヤキ(槻)が並び立つ、特徴的な景観に基づくものと思われるが、多武峰も磐余から眺めることができるので、いずれにしても磐余の王宮を指すのだろう。

 

倭王ではない王族たちの存在

慶雲2(705)年には、文武もんむ天皇が「倉橋離宮 くらはしのかりみや」に行幸した記事がみえる(『続日本紀』同年三月癸未条)。倉橋は、崇峻すしゅん天皇の倉橋宮が置かれたとされる地である。5・6世紀の王宮の地に、100年以上を経て天皇が行幸したり、建物が修繕されたりしていることは、これらの地に置かれた宮が長期間にわたって維持されていることを示している。

歴代遷宮論が成り立たないとすれば、5・6世紀の王宮を解く手がかりはどのように考えればよいのだろうか。これまでの研究では、史料の性格上、大きな制約を抱える記紀の宮名に頼りすぎていたことが問題であった。

もうひとつの問題は、王族は倭王に限定されるわけではなく、ほかにも多くの王族がいたと考えられるにもかかわらず、記紀にみえる王宮は、ほぼ倭王の宮に限定されていたことである。

5世紀の刀剣銘文には他の王族と区別される「大王」の称号がみえるので、逆に大王、つまり倭王ではない王族たちが存在したことが推測できる。また5世紀の倭王は、少なくとも中国に対しては姓として「倭」を名乗っていたと考えられるが、『宋書』には、倭姓を名乗る使節がみえるので、やはり倭王とは異なる王族が存在したことがうかがえる。

少なくとも5世紀には、倭王は有力な豪族の中からいきなり選ばれるのではなく、あらかじめ王を名乗る人びと、つまり王族たちが存在し——『宋書』の倭姓の使節は、こうした王族が中国風の姓として名乗ったものだろう——、その中から選ばれる存在だったことがわかる。

ただし5世紀には、王族であることの条件はかならずしも血縁関係のみではなく、王であるにふさわしい資質をそなえていることが周囲から認められた存在であるかどうかが重要だった。どのような人びとが王族とされたのか、それは第2章で検討することにしたい。

いずれにしても、こうした王族の王宮について、記紀が記すところはきわめて少ない。こうした限界を突破するためには、どのような方法が必要とされるのだろうか。

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