【奇跡の戦争秘話】重慶上空で「戦火を交えた宿敵」と再会した“零戦パイロット”

58年の時を経て再会
神立 尚紀 プロフィール

「零戦初空戦」に参加した13名

「零戦初空戦」に参加した搭乗員たちも、13名のうち、9名が戦死または殉職していた。

昭和15年9月13日、零戦のデビュー戦を飾って漢口基地に帰還した13名の搭乗員(飛行服姿)と、第十二航空隊の主要幹部。前列左から光増政之一空曹、平本政治三空曹、山谷初政三空曹、末田利行二空曹、岩井勉二空曹、藤原喜平二空曹。後列左から横山保大尉、飛行長時永縫之介少佐、山下小四郎空曹長、大木芳男二空曹、北畑三郎一空曹、進藤三郎大尉、司令長谷川喜一大佐、白根斐夫中尉、高塚寅一一空曹、三上一禧二空曹、飛行隊長箕輪三九馬少佐、伊藤俊隆大尉。搭乗員の肩越しに零戦の列線が見える

光増政之一空曹は、昭和16年9月、対米戦に備えて編成された第三航空隊(三空)に配属され、台湾・高雄基地からフィリピン・クラークフィールドの米軍基地を空襲するための訓練に入った。ところが光増は、夜間飛行訓練中の11月8日、もう1機の零戦と空中接触、墜落し、無念の死を遂げてしまう。殉職時、光増は一飛曹だった。

山谷初政三空曹も三空に配属され、開戦劈頭のフィリピン空襲を皮切りに、東南アジアを転戦。しかし、昭和17年2月3日、ジャワ島のスラバヤ上空で、零戦27機が数10機の敵戦闘機と激突した空戦で戦死した。戦死時、二飛曹。

高塚寅一一空曹は、台南海軍航空隊(台南空)の一員として南太平洋の日本海軍の拠点・ラバウル基地に着任。ガダルカナル島をめぐる航空戦で活躍したが、「零戦初空戦」からちょうど2年となる昭和17年9月13日、空戦中に行方不明となり、戦死が認定された。戦死時は飛曹長。

北畑三郎一空曹は、空母隼鷹(じゅんよう)零戦隊の一員として太平洋を北から南へと転戦し活躍したが、昭和18(1943)年1月23日、ニューギニア・ウエワク上空で、米軍の大型爆撃機・コンソリデーテッドB-24を邀撃したさいに戦死した。戦死時の階級は飛曹長。

大木芳男二空曹は、昭和18年6月16日、零戦70機と敵戦闘機104機がガダルカナル島上空で大空戦を繰り広げた「ルンガ沖航空戦」で戦死した。この空戦の総指揮官は、かつて零戦初空戦を指揮した第五八二海軍航空隊飛行隊長・進藤三郎少佐だった。

平本政治三空曹は、空母龍鳳(りゅうほう)零戦隊の一員としてブーゲンビル島ブイン基地に派遣され、昭和18年7月17日、ブインに来襲した敵機の戦闘機、爆撃機の大編隊を邀撃したさいに被弾。操縦の自由を失い、墜落する機体から脱出を試みるも、落下傘が開かず墜死した。戦死時、上飛曹。

末田利行二空曹は、第二五二海軍航空隊の一員としてウェーク島に駐留していた昭和18年10月6日、米海軍が新たに投入したグラマンF6Fヘルキャット戦闘機との初対決で戦死した。戦死時、飛曹長。この日、二五二空は歴戦の搭乗員を揃えて戦いながらも、6機の撃墜戦果と引き換えに、末田をふくむ19名を失う完敗だった。零戦の初空戦で活躍した末田がF6Fとの初対決に敗れたことは、まさに「無敵零戦」神話の終焉を象徴するものといえた。

 

十二空で随一の撃墜戦果を記録していた山下小四郎空曹長は、昭和19年1月、第二〇一海軍航空隊の一員としてパラオ島に進出、同年3月30日、大挙して来襲した敵機動部隊艦上機の邀撃戦で未帰還となった。戦死時の階級は少尉。この日の空襲で、パラオにいた零戦隊は壊滅した。山下の目に、米軍戦闘機との空戦はどのように映ったのだろうか。

白根斐夫中尉は、空母鳳翔(ほうしょう)、赤城、翔鶴、瑞鶴と母艦を渡り歩き、いくつもの海戦に参加したが、昭和19年11月24日、新鋭機紫電(しでん)で編成された戦闘第七〇一飛行隊長として、フィリピン・レイテ島西岸のオルモック湾で敵魚雷艇を銃撃中、敵防禦砲火を浴びて戦死した。戦死時、少佐。

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