【奇跡の戦争秘話】重慶上空で「戦火を交えた宿敵」と再会した“零戦パイロット”

58年の時を経て再会

今年(2021)5月、104歳の誕生日を迎えた元零戦パイロット三上一禧(かつよし)は、いまからちょうど81年前の昭和15(1940)年9月13日、第十二航空隊の一員として、いまや伝説的ともいえる中国大陸・重慶上空の零戦のデビュー戦に参加した。中華民国空軍のソ連製戦闘機に対し、一方的な勝利をおさめたこの日の零戦搭乗員は13名、三上氏以外は全員が故人である。大戦初期の「無敵零戦」神話の始まりとなった空戦に参加した男たちのその後の運命とは――。

【前編】中国軍機を次々と撃破…「零戦デビュー戦」を闘った“13人のパイロット”たち

 

4年近くにおよんだ零戦の戦い

零戦隊の漢口基地への帰還を待って、午後7時、支那方面艦隊より報道発表がなされた。

昭和15年9月13日、夕日に照らされた漢口基地で、零戦初空戦の戦果を報告するため整列した搭乗員たち。周囲に人の輪が広がっている

〈中支艦隊報道部〇〇基地九月十三日午後七時發表

海軍航空部隊は本日前日に引續き重慶第卅五次晝間攻撃を實施域内要人宅を爆撃せり、この日我が戦闘機隊は敵戦闘機廿七機を捕捉敵首都上空に於て之を殲滅せり、我方全機歸還せり〉

この空戦のことは新聞でも、

〈重慶上空でデモ中の敵機廿七を悉く撃墜――海鷲の三十五次爆撃〉

〈帰ったゾ偉勲の海鷲 機体諸共胴上げ・敵機廿七撃墜基地に歓声〉(昭和15年9月14日朝日新聞西部本社版〉

〈重慶で大空中戦廿七機全機撃墜 きのふも爆撃海鷲の大戦果〉(9月15日大阪毎日新聞)

などと、いずれも軒並みトップ記事の扱いで大きく報じられた。この「大戦果」をもっとも早く報じたのは、9月14日の朝日新聞で、他紙は15日以降の報道になっている。

なお、私が中華民国空軍の記録を調査したところ、中国側はこの日、13機が撃墜され、11機が被弾損傷、パイロット10名が戦死、8名が負傷したとのことだった。

零戦はその後も中国大陸上空を席巻した。翌昭和16(1941)年9月、対米英開戦準備のため内地に引き揚げるまでの約1年間に、零戦隊の挙げた戦果は撃墜約100機、地上撃破約170機に達していた。対して零戦の損害は、3機が敵の地上砲火に撃墜され、3名が戦死。空戦で撃墜された零戦は1機もいなかった。敵戦闘機による陸攻隊の被害が激減したこともあわせ、零戦の投入は、まずは大成功だった。

――しかしこれは、その後4年近くにおよんだ零戦の戦いの、ほんの序章に過ぎない。

昭和16年12月8日、日本はアメリカ、イギリスに宣戦を布告、太平洋戦争(当時の呼称は大東亜戦争)がはじまる。

開戦劈頭、零戦隊は中国空軍相手のときと同じように米英軍機を圧倒するが、翌昭和17(1942)年6月5日、ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失う大敗を喫し、さらに同年8月、アメリカとオーストラリア間の交通路を遮断するため日本海軍が飛行場を建設していたガダルカナル島に米軍が上陸、同島をめぐる攻防戦が激しくなると潮目が変わった。

物量をもって押し寄せる敵が次々に繰り出す新型機の前に零戦は徐々に苦戦を強いられるようになり、やがて日本の形勢が決定的に不利になると、爆弾を積んで敵艦に体当りする特攻機としてさえも用いられた。

戦争中、生産された零戦は1万機を超えるが、昭和20(1945)年8月、終戦時に残存していたのは1166機にすぎず、戦没した戦闘機搭乗員は4330名にのぼる。

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