中国軍機を次々と撃墜…「零戦デビュー戦」を闘った“13人のパイロット”たち

81年前の「9月13日」

今年(2021)5月、一人の元零戦パイロットが104歳の誕生日を迎えた。大正6(1917)年生まれの三上一禧(かつよし)氏がその人である。じつは零戦の元搭乗員で100歳の大台を超えたのは三上氏が初めてだった。私が三上氏と出会ったのは25年前の1996年。2019年、102歳の誕生日には入所中の施設までお祝いに駆けつけたものの、その後はコロナ禍で会えないままになっている。年齢が年齢ゆえ、いまとなってはインタビューは無理だが、104歳の誕生日にご家族から届いた写真は生気にあふれていた。

三上氏は、いまからちょうど81年前の昭和15(1940)年9月13日、第十二航空隊の一員として、いまや伝説的ともいえる中国大陸・重慶上空の零戦のデビュー戦に参加した。中華民国空軍のソ連製戦闘機に対し、一方的な勝利をおさめたこの日の零戦搭乗員は13名、三上氏以外は全員が故人である。大戦初期の「無敵零戦」神話の始まりとなった空戦に参加した男たちのその後の運命とは――。

 

零戦のデビュー

昭和15(1940)年9月13日金曜日――。

この日、中国大陸重慶上空において、日本海軍に制式採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機が中華民国空軍のソ連製戦闘機、ポリカルポフE-15、E-16(正しくはИ-15、И-16。И-15は改良型のИ-15bis〈И-152〉だが、日本海軍、中国空軍両軍ともにこう呼んだ)、あわせて約30機と交戦、うち27機を撃墜(日本側記録)、空戦による損失ゼロという一方的勝利をおさめた。

新鋭戦闘機にふさわしい、華々しいデビュー戦であった。

零戦はその後、中国大陸上空でつねに一方的な勝利をおさめ、さらに太平洋戦争の初期にもアメリカ、イギリスをはじめとする連合軍機を圧倒。「ゼロ・ファイター」の名は、敵パイロットに神秘的な響きさえもって怖れられることになる。

試みに、昭和15年の81年前は、とみると、安政6(1859)年。大老・井伊直弼が、徳川幕府の諸策に反対する尊王攘夷派や一橋派を弾圧した「安政の大獄」の起きた年である。つまり、零戦のデビュー戦は、昭和15年当時の人が安政の大獄を振り返るに等しいほどに、遠い昔の出来事となってしまった。

ところが、この日の空戦に参加した13名の零戦搭乗員のなかで、いまなお存命の人がいる。104歳の三上一禧(かつよし)がその人である。

「零戦初空戦」に参加した搭乗員は、日本海軍第十二航空隊の進藤三郎大尉以下、白根斐夫(あやお)中尉、山下小四郎空曹長、高塚寅一一空曹、北畑(きたはた)三郎一空曹、光増政之一空曹、大木芳男二空曹、藤原喜平二空曹、末田利行二空曹、三上一禧二空曹、岩井勉二空曹、平本政治三空曹、山谷(やまや)初政三空曹の13名(海軍の搭乗員の階級呼称は、昭和16年6月、航空兵、航空兵曹→飛行兵、飛行兵曹に変更される)。

昭和15年9月13日、零戦のデビュー戦を飾って漢口基地に帰還した13名の搭乗員(飛行服姿)と、第十二航空隊の主要幹部。前列左から光増政之一空曹、平本政治三空曹、山谷初政三空曹、末田利行二空曹、岩井勉二空曹、藤原喜平二空曹。後列左から横山保大尉、飛行長時永縫之介少佐、山下小四郎空曹長、大木芳男二空曹、北畑三郎一空曹、進藤三郎大尉、司令長谷川喜一大佐、白根斐夫中尉、高塚寅一一空曹、三上一禧二空曹、飛行隊長箕輪三九馬少佐、伊藤俊隆大尉。搭乗員の肩越しに零戦の列線が見える
昭和15年8月、揚子江上空を飛ぶ北畑三郎一空曹操縦の零戦。撮影は進藤三郎大尉

うち9名がその後、戦死あるいは殉職し、5年後の昭和20年、生きて終戦の日を迎えたのは指揮官・進藤大尉(終戦時少佐)、岩井勉二空曹(終戦時中尉)、藤原喜平二空曹(終戦時少尉)、三上一禧二空曹の4名のみ。藤原は平成3(1991)年に病没し、私がインタビューを重ねることができた進藤、岩井もそれぞれ、平成12(2000)年、16(2004)年に亡くなっている。「零戦初空戦」から81年の日に、彼らの「その後」について振り返ってみたい。

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