命が戻ってくるなら、どんなに素晴らしいことだろう。しかし、残念ながら失われた命が戻ってくることはない。では、不慮の事故やテロで愛する家族を失った遺族は、どのようにしてその現実とともに歩いていけばいいのだろうか。

2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロで夫の陽一さんが犠牲となってしまった杉山晴美さん。当時3歳、1歳の男の子がおり、そしてお腹の中に新しい命がいた。あの日のようなことがあってはならないと20年のことを綴る連載「あの日から20年」、2021年9月11日にお届けする今回は、前編で20年前のあの日のことを振り返っていただいた。そして中編では、あの日の後にはじまったアフガニスタンについて。米軍が20年になる直前に撤退をし、アフガン情勢が不安定となっているのは報道の通りだが、果たしてこの20年で軍の力によってテロはなくなったのだろうか、晴美さんがいま考えることをお伝えした。

後編では、ではこの20年で晴美さんとお子さんたちはどのように成長してきたのかを綴っていただく。

「グラウンド・ゼロ」と呼ばれるアメリカ同時多発テロの跡地にある、犠牲者の名前が刻まれた碑。陽一さんの名前も刻まれている 写真提供/杉山晴美
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京都の大学をやめて、教職を目指す長男

さて、世界から我が家に目を戻してみよう。子供たちとわたしは、2001年9月11日のあの日から20年でどのように変化していったのか。

長男は中高生の頃、父親の命を奪った事件に興味を持ち、私同様発信者になった話は以前の回でもお伝えしたが、大学にあがり色々なことを考えたようだ。

入学当初はテロリストの思考を紐解くためにコーランを読んでみたいと言って、第二外国語でアラビア語を選択したり、学年が進んでからは、自分はジャーナリズムを目指すべきなのではと考え、メディアを希望し就職活動をしたり。
そうした行動は、立派、素晴らしいと評価を受けながらも、そう高評価されればされるほど、自身の中での疑問は膨らんでいったらしい。

陽一さんのことを「ぶーちゃ」と呼んでいた、当時3歳だった長男。晴美さんがタイミングをみながら、伝え方を考えながら、まっすぐに現実を伝えてきた 写真提供/杉山晴美

本当に自分の目指すものはそこにあるのか? 今まで自分は、自分の生い立ちにとらわれ、他人の評価ばかりを気にして生きてきてしまったのではないか? 期待に応えたい、周りの求めている自分でいたい、そんなベクトルで、今まで様々なことを選択してきてしまった気がするというのだ。そしてことごとくその選択は、部活動にしろ、その他の活動や、大学受験、就職活動まで成功し、結果を出すことができ、軌道修正する事が出来ずに流されてきてしまったという。
他人が聞くと、なんと贅沢な悩みだ! と思ってしまうのだが、本人は真剣だった。京都で暮らしていたが、わたしも何度かその地を訪ね、彼の話をじっくり聴いた。

最終的に長男が出した答えは、本当に自分がやりたいことが分かった。自分のこれまで積み重ねてきたもの、経験も無駄にせず、また自分の個性を発揮し適正を感じるのは教職だという。もう一度一から学び直したい。学費は自分で稼ぐ。働きながら学びたいので、もう一度別の地で国立大を受験して教職課程を取り、公立高校の教師を目指す、というものだった。
周りは10人中10人が卒業しないのは勿体ない! と言っていたが、本人の意志は固く、わたしも長男とよく話し合っていたので、彼の選択に反対することはしなかった。

「一度きりしか無い自分の人生、好きに生きなよ。やりたいことが見つかってよかったね。失敗したって何度だってやり直せばいいんだし、思いっきり頑張って! 応援するよ」そう励ました。

夫は何と言ったかな?そう考えたが、夫のよく言っていたあの言葉を想い出した。

「やってみりゃいいじゃん」

やはり夫も反対はしないだろう。夫自身、学生時代から、海外で働きたいという夢を持って努力を続け、それを叶えてニューヨークまでたどり着いた人だ。志半ばで命を落としはしたが、わたしは夫の人生はやりたい事を精一杯頑張りぬいた素晴らしい人生だったと思っている。そんな夫も、長男のことを天から見守り応援しているに違いない。

次の春が来たら、再び家を出て行って今度こそ帰っては来ないかもしれないけれど、おかあさんはいつまでも応援してるよ! ファイッ!