「仕事帰りに軽く一杯呑んで、シメのラーメンも食べられる。しかも駅前にあって、朝までやっている。言ってみればラーメン屋台です。その良さを再現することが創業以来の思いなのです」

そう語るのは、中華料理チェーン『日高屋』を展開する「ハイデイ日高」の創業者、神田正会長(69)だ。店名や社名になっている「日高」とは、神田氏の出身地である埼玉県日高市のこと。
その日高屋、7期連続で増収増益を続けるなど、業績をグイグイ伸ばしている。
現在の店舗数は首都圏で約250店。 '10年2月期の売上高は約227億円。同じく中華料理チェーンを展開する「餃子の王将」( '10年3月期売上高673億円)を西の横綱とすれば、「幸楽苑」(同・356億円)とともに東の横綱を張っているのが日高屋なのだ。
人気のヒミツは、安さと気軽さ。例えば、看板メニューの「中華そば」は390円、「餃子」は190円という安さ。生ビール一杯390円と合わせて頼んでも、1000円以下で飲み食いできてしまう。
そのうえ、「ニラレバ」「唐揚げ」といった居酒屋メニューも充実。店舗は基本的に駅前での24時間営業であるため、深夜でも気軽に利用することができる。それが、サラリーマンを中心にウケているのだ。
「駅前には、一人で安く呑んで食べられるような店が少なくなりましたよね。駅前一等地のラーメン店は値段が高いし、一人で呑もうと思っても、気軽に入れる居酒屋はほとんどない。そうした方たちに日高屋に来ていただいているんです」
人なつっこい笑顔でそう語る神田氏。実は、そんな同氏を語るうえで欠かせないのが"貧乏"だ。「貧乏だからこそ、人の逆を行く発想ができた」と言う神田氏の"貧乏逆転人生"に迫った。


中卒後、風来坊に
神田氏は、小学校6年生の頃から、傷痍軍人で働くことができなかった父に代わり、家計を支えた。 '53年から約4年間、休日になると横田基地から川越の霞ヶ関カンツリー倶楽部にゴルフに来る在日米兵のキャディを務めたのだ。
「その時の私はとにかくカネがすべて。英語は分からないので、身振り手振りで、相手をほめ、ご機嫌をとって、ジュースなどを買ってもらっていた」
中学生になると、キャディに加え、新聞配達を始め、卒業後は、箪笥の金具を作る製作所、浄水場の塀作り、鉄工所でのベアリング作り、運送屋、土建屋、キャバレーのボーイなど、15もの職を転々とした。一番長く続いたのが本田技研工業の工場で1年半。働きが認められ正社員に登用されたが、単調な仕事に飽きて辞めた。
正社員になって喜んだ母親は、辞めたことを知って、たいそう悲しんだという。「当時の私は、カネがなくなると、家にも帰らず、野宿して過ごすような風来坊でした」と神田氏。そんな人生が転機を迎えるのは '68年、27歳の時だ。パチプロとして生計を立てていた神田氏は、知人の頼みで岩槻市のラーメン店の雇われ店主になったのだ。

「面白かったんですよ。ラーメンを作るのは難しくないし、売れた分は現金になってすぐに入ってくる。貧乏だったので、現金に触れることやカネ儲けの仕組みを知ることが楽しかったんですよ」
その後、店を譲りうけることになった神田氏は、経営にのめり込み、店の売り上げを拡大させる。だが、次第に"天狗"になった。
スナック経営に手を出し、その失敗が元で1年後にはラーメン店を潰してしまうのだ。もっとも、32歳になる '73年には、現在の「日高屋」につながる「来来軒」を大宮駅前に開店する。
偶然、家賃・月2万円という破格の安さの5坪の物件に出会い「現金を手にできる感動」が甦ったことから、ラーメン店としての再スタートを切ることにしたのだ。
「チェーン展開を考え始めるのはこの頃から。当時、ラーメン店といえば、3~4年修業して、自分の店を持つのが普通でした。ただ、それでは、数店舗の経営が限界。客よりも、自分のことだけを考えて、行き詰まることにもなる。それで実弟(現取締役の町田功氏)と義弟(現社長の高橋均氏)を口説いて、3人で共同経営する道を選んだんです」
このような貧乏と失敗の経験が、当時としては珍しいラーメンチェーンを生み出すきっかけになったのだ。
その後、神田氏は、心を入れ替えたように、ラーメン店経営に打ち込む。 '78年には組織を法人化し、 '86年には原材料を加工して配送するための工場を作った。大量生産によって低価格を実現するためだ。
また、 '93年には都内1号店を赤羽に出店し、 '99年には株式も公開した。そうした成長の原動力になったのが、時代を先読みする「逆転の発想」経営だった。

「 '70~ '80年代の一般的なチェーンは、郊外に出店する大型店舗が主流でした。経済成長のなかで、車社会が到来していたことから、土日のファミリー層向けに、幅広いメニューを提供していったのです。しかし、私は逆に、駅前一等地への出店にこだわりました。お客さんは、平日に外食する都会のサラリーマンだと思ったからです」

そのことに気付くヒントになったのが、 '75年頃に大宮駅でよく見かけるようになったサラリーマンの姿だ。
「以前は弁当を片手に持って会社に出勤するサラリーマンをよく見かけた。それが弁当の代わりに、週刊誌などを持つようになった。弁当を持参しない人は、当然、会社の外で昼食をとります。
また、帰りが遅くなれば、やはり会社の外で夕食をとります。昼は昼、夜は夜で、そういうサラリーマン客向けに、安くて手軽なラーメンを提供すれば、何も郊外に大型店を出店する必要などないと思ったんです」