”即身成仏行”をした修験者に聞く「人は生きたまま死ねるか」

7日間生き埋めの苦行をして悟ったこと
昭和40年代初め、「少年マガジン」に「日本のミイラ」と題した写真が掲載された。眼窩は落ち窪み、幽霊のように両手をだらりと下げ、骸骨がうっすら笑っているかのようだ。小学5年のころのことで、見てはならないものを見てしまったようで震え上がった。
年を経て、この記憶は薄れるどころか、ますます私の心をとらえて離さなくなった。即身仏ミイラの”現物”をこの目で見てみたい! この目に焼きつけることで死の恐怖の正体を知りたい。そして、さらに、ミイラになるのと同じように、土中に籠る苦行をした行者がいると聞き、何を感じたのか聞きたくてたまらなくなった。
私は、山形県にある修験道の聖地、出羽三山の一つ湯殿と、”即身成仏行”が行われた福岡県の求菩提山に飛んだ。

「湯殿」に居並ぶ、即身仏ミイラ

湯殿は、羽黒、月山、湯殿という出羽三山の一つで、主峰である月山の奥の院として知られる。

冬の湯殿山

JR東日本、羽越本線鶴岡市駅から湯殿山行きのバスで約50分、大網駅で降り15分ほど歩くと、真言寺院、注連寺(ちゅうれんじ)に着く。同寺のある集落を七五三掛(しめかけ)という。同寺から始まる七五三掛口は、湯殿山から月山へ行く七つの登り口の一つ。昔であれば、七五三掛口から先は女人禁制であった。

注連寺本堂の奥の片隅に厨子があり、そこに即身仏ミイラが鎮座していた。落ちくぼんだ眼窩、黒光りする身に朱色の法衣をまとい、両手をだらりと下げている。

その恰好が幽霊のように見えるのは、左の掌の上に右手の甲を重ねて組む大日如来の手印がほどけたからだとわかった。ミイラの主は鉄門海上人という。

鉄門海は無頼の鉄と呼ばれ、武士と争い天秤棒で殴り殺し、注連寺に逃げ込み、一世行人になったという。江戸時代末期のことである。遊郭の女性との交誼を断つために睾丸を切り取り、女性に進呈したことでも知られる。

一世行人とは出羽三山で最も厳しい行、つまり即身成仏行を行った修験者に与えられる尊称だ。その場合、空海の「海」をもらい、一世行人はみな海号がつく。

鉄門海が即身仏になったのは、弘法大師空海と同じ年齢(62歳)で即身仏となろうと発願したことによる。

通常は発願から数えて1000日単位で山篭りの修行をするが、鉄門海の場合、3000日の修行を行った。

修行の合間、諸国を経めぐり歩いた。江戸では眼病に悩む人々のために、隅田川で自分の左目をくりぬき、竜神に祈願したことが知られている。以来、恵眼院(えがいん)鉄門海上人と呼ばれた。

注連寺
鉄門海上人の即身仏

自らの身を投げうって、人々の苦しみを引き受ける

入定の前には五穀・十穀断ちをし、腸が腐らないよう漆を呑み、水・塩だけの断食をし、土中深く埋められた座棺に入り、即身仏となった。1832年入定という。

「湯殿の即身仏の特色は、行者自らの身を投げうって行う捨身行で、それによって人々の苦しみを代わりに引き受ける代受苦の実践なのです」と注連寺住職は語った。

次に訪れたのは注連寺から徒歩10分ほどのところにある、やはり真言宗の大日坊という寺だ。ここには、真如海上人の即身仏が祀られている。1783年、天明の飢饉を救うことを発願し、96歳で土中入定した。

大日坊
真如海上人の即身仏

やはり鉄門海上人同様、無頼の徒で、武士を殺してしまい、大日坊に助けを求め駆け込んだのがきっかけという。

案内してくれた大日坊貫主によると、土中入定の様子は次のとおりである。行人は座棺に座し、棺の周りに臭い消しの木炭を詰め、獣にあばかれないよう地下3メートルに埋められる。棺の上蓋から太さの違う竹筒が2本、地上まで伸びていた。

太めの竹筒は地上で見守る弟子との連絡用という。時に水分を補給することもあるという。細めの竹筒は空気穴なのだが、竹筒の先にひもが伸び鈴がついていて行人が動けば、鈴が鳴る。鳴らなくなれば亡くなったということだ。

夜の底で鳴る鈴の音色は、里中にもの悲しい響きを聞かせたといわれる。

行人が死亡したことが弟子たちにわかると、2本の竹筒を抜き、完全な密室にし、そこから3年3ヵ月待ち、その後、発掘したという。

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