2021.08.29
# 日本史

「戦国最強の大名」と言われた島津家、実は「未熟で弱体」だった…?

歴史研究が明らかにした「意外な一面」
戦国時代において「最強の大名」と言えば、誰を思い浮かべるだろうか? 朝鮮出兵時の泗川の戦いや関ヶ原の戦いでの奮戦ぶりから、おそらく九州の島津家を挙げる人は少なくないだろう。そんな島津家だが、歴史学では「意外な一面」も明らかになってきている。新刊『「不屈の両殿」島津義久・義弘』から、一部編集のうえで紹介しよう。

戦国島津家に対するイメージ

薩摩・大隅・日向三か国統一を成し遂げた島津家は、天正7年(1579)11月、隈本城(熊本市中央区古城町)の城親賢の要請により、同城に援軍を派遣して以来、肥後国情勢に介入していき、天正9年9月には肥後南部の有力国衆相良義陽を下している。

これ以降、天正14年末まで、島津家は肥後以北の北部九州に進出していき、龍造寺隆信を敗死させ、筑前・豊前・豊後の一部をのぞき、九州の大半を勢力圏に収めていく。天正年間初頭まで北部九州六か国を勢力下においていた大友宗麟に代わって、事実上九州の覇者として君臨するに至ったのである。

東京芸術大学大学美術館蔵の島津義久像[ウィキメディア・コモンズ]
 

一般の方の戦国島津家に対するイメージというのは、このように短期間で九州のほぼ全域に影響力を及ぼすに至った強大な軍事力を背景とする“九州最強の戦国大名”であろう。そして、泗川の戦いや関ヶ原の戦いにおける島津義弘の奮闘も相まって、島津家は“強い”大名の代表と理解されている。

しかし、学界レベル、研究者の間では戦国島津家の評価は芳しくない。むしろ、豊臣政権下にあってはお荷物大名、いつ取り潰されてもおかしくない、まともに領国経営もできない酷い大名権力であり、それは戦国期段階の“未熟さ”に起因するとの評価がすっかり定着してしまっている。

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