関東平野の地下にフォッサマグナはあるか?

フォッサマグナと武蔵野
「フォッサマグナ」とはいったい何なのか。いつできたのか? なぜできたのか? 謎に包まれたフォッサマグナと関東平野(武蔵野)の関係性を、ブルーバックス『フォッサマグナ』の著者である藤岡換太郎さんに解説していただきました。

(本稿は雑誌「武蔵野樹林」からの転載です)

この小文は、角川歴彦会長よりの「武蔵野はフォッサマグナなりや?」とのお尋ねに答えるために書いたものです。8月公開予定の映画『妖怪大戦争 ガーディアンズ』では、主戦場となる武蔵野はフォッサマグナに含まれるという設定になっているそうで、もし本当にそうであればありがたい、というのです。

武蔵野すなわち関東平野がフォッサマグナであるかどうかは、フォッサマグナの東の端がどこにあるかという問題に帰着します。そしてこれは、現在も決着がついていない大問題です。フォッサマグナは名前こそ知られていますが、その正体はいまだに謎だらけで、まさに「妖怪」そのものなのです。ここでは、フォッサマグナとはそもそも何者なのかを整理しながら、東端問題についてもできるかぎり明快に私見を述べてみたいと思います。

映画「妖怪大戦争 ガーディアンズ」8月13日(金)全国公開
公式サイト https://movies.kadokawa.co.jp/yokai/

フォッサマグナってなんだろう

「その時、私は、自分が著しく奇妙な地形を眼前にしていることを十分に意識していた。というものの、それが、島弧を完全に横断して走る溝のような土地であって、そのど真ん中から多数の火山、なかでも日本最大の火山(富士山)を生み出している、そういう場所であること、またその場所において火山という寄生物を抱えた長大な横断低地が、造山過程をとおして生じたということ、そういうことについては、なお思い浮かべることもできなかった。(中略)それは一大横断裂罅の地表における明確な軌跡を意味する可能性があり、それに対して特別な名前を付ける値打ちがあるので、地表における形態をも考慮してフォッサマグナ(Fossa magna)という名称を提唱したのであった」

これはフォッサマグナの発見者であり名づけ親でもあるエドムント・ナウマンによる、最初の驚きを綴った文章です。フォッサマグナの地形を端的に表現しています。
1875(明治8)年、お雇い外国人教師としてドイツから日本にやってきたナウマンは、20歳にして東京大学地質教室の初代教授になりました。就任してすぐに出かけた地質旅行で、八ヶ岳(長野県)近くの平沢という集落に投宿して嵐に見舞われた翌朝、晴れた青空のもとで南西の方向を見た彼は、その地形に深く感動し「フォッサマグナ」という天啓を得たのでした。

エドムント・ナウマン

では、地図帳を広げて見てみましょう。中部地方の頁を開くと、糸魚川(新潟県)から松本盆地(長野県)を経て諏訪湖(長野県)に至る地域は、溝状の地形をしていることが見てとれます。さらに諏訪湖から甲府盆地(山梨県)を経て富士川(静岡県)に沿って駿河湾に至る地域は、周辺の山脈よりもきわめて低い地形が連続しています。

この日本海から太平洋に至る地域は、まるで日本列島の中央部をほぼ南北に走る巨大な「溝」に見えます。これがフォッサマグナです。西日本からつながる古い山脈や地質体は、フォッサマグナによって分断されています。そのことを初めて発見し、指摘したのが若きナウマンでした。

あらためて紹介すると、フォッサマグナとは、日本列島の中央部を南北に胴切りにする幅20~50km、深さ6km以上もある巨大な凹地のことです。東西両側の地層よりも新しい火山性物質や、砂や泥によって埋積されていますが、その下には、人類発祥の地とされる東アフリカのグレートリフトゾーンにも酷似したリフト(大地溝)が隠れているのです。

フォッサマグナの成因をめぐる大論争

ナウマンはその後、ドイツ帰りで日本人初の東大地質教室教授になった原田豊吉と、フォッサマグナの成因をめぐって激しい論争を繰り広げました。

一つの島弧(弓なりになった陸地)が真ん中で割れてフォッサマグナができたと考えたナウマンに対して、原田は、東西の二つの島弧がぶつかってフォッサマグナのところで一つになったとする考えを提唱したのです。しかし、やがて原田が若くして亡くなったため、論争は長くは続きませんでした。

ナウマンの考えたフォッサマグナの成因

彼らの時代には考えがおよばないことでしたが、現在では、フォッサマグナの成因は日本海の成因とセットであることがわかっています。そして日本海の成因にもまた諸説が唱えられていて、結論が出ていません。のちほど、それも含めたフォッサマグナの成因について、筆者なりの考えもまじえて紹介したいと思います。

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