2021.08.25
# 立ち読み # 緩和ケア # 医療

安楽死に賛成する前に知ってほしい「あの時死ななくて良かった」の声

死を唯一の選択肢にしてはならない
大津 秀一 プロフィール

患者に「寄り添う」議論を

ただ先述したように、医師個人の資質の議論のほうに重きが移ったことや、あいも変わらず用語の使い方がやや繊細さを欠いたことは残念です。例えば「消極的安楽死」という言葉。

最近の考えでは「延命治療の差し控えと中止」と呼ばれ、使用されなくなってきていますが、狭義の安楽死つまり医師が致死的薬物を使用して死に至らしめること(つまり今回のようなケース)とは実際にはだいぶ違いがある行為です。

しかし同件に関する報道ではこの言葉も散見されました。そのような行為までいまだに安楽死と称されることが、より広い意味で安楽死という言葉が使われることに関係しているかもしれません。

 

私がつねづね問題だと感じているのは、このような安楽死の範囲の話をすると必ず、「死にたいと思っている人にはどれも同じ」「言葉をこねくり回しているだけ」という意見が出てくるのですが、真剣に今後の安楽死を考える時に、それはふさわしい姿勢なのだろうか、ということです。

ときには、そのほうが支持を得られるという無意識的な気持ちもあるのか、それが「寄り添う」という姿勢であると捉えているのか、一部医師などの専門家もこのような意見を述べるので、残念な思いです。それは問題解決につながらないからです。もし今後真剣にこの問題を考えて、制度としての可否を考えるならば、どこまでを認め、どこまでは認めないかを議論する必要が生じるでしょう。

そのため、当事者の思いは理解しつつも、定義について共通の土台をもとに話し合うことが重要だと感じます。定義はどうでもよいとする意見は、本気でこの問題を考えることを放棄していることに近いと感じています。ところが安楽死の推進者もえてしてこのような態度をとるため、余計に話が進まなくなっているという矛盾を招いているのです。

私自身は、生きている方の時間をより良いものにするための支援の専門家なので、積極的に安楽死に賛成する立場ではありませんが、一方で判で押したように本件後も公式的な議論は「時期尚早」とする意見が目立ったのは気になりました。

推進者の何でもよいから死なせろとする意見も、反対者のいつまで経っても「時期尚早」で議論をせずという姿勢も、いずれも気がかりです。その時々では話題になるも、どうも深まらない安楽死などに関しての議論自体は、賛否を問わずそれはそれで促進してゆく必要があると考えます。

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