撮影/渡辺充俊

いま一番肝の据わった記者と映像作家が語る、メディアの“もたれあい”を変える手段

自壊するメディア(4)望月衣塑子✖五百旗頭幸男
いま一番肝の据わった記者・望月衣塑子氏と、最注目の映像作家・五百旗頭幸男がコロナ無策、五輪断行、民意無視で暴走する政治権力に対し、監視機能を果たせない巨大メディアの腐食を撃ち、再生への途を熱く語ったα新書『自壊するメディア』が8月20日発売。
注目の新書から、望月衣塑子氏と五百旗頭幸男氏の対談『自壊メディアの現実を超えて、新たな地平へ』の一部をご紹介。

だれも傷つけない映像表現などない

五百旗頭 『はりぼて』の撮影では、取材対象に安易には寄り添わず、適度な距離を取りました。編集を含めて、僕は取材対象に対して、ある種の加害者でもあります。

五百旗頭幸男氏 撮影/渡辺充俊

「知事はともかく他の取材対象を傷つけるのはどうなのか」「取材対象との関係が崩れかねない質問をよくするなあ」と言われるんですが、僕は「映像表現は人を傷つけることがあるもの」と理解したうえでドキュメンタリーを撮っています。傷つけるかもしれない痛みを抱えながら、それでも被写体と向き合い続けるのが表現者だと考えてます。

 

視聴者や被写体を含め、だれも傷つけない映像表現などありえませんし、だれも傷つけない表現に人の心を揺さぶる力が宿るとは思えない。そうした表現の根源と向き合わずにごまかし続け、信頼を失ってきたのが現在のテレビじゃないでしょうか

いまの大多数の政治家と記者との関係で言うと、取材する側とされる側のそうした緊張関係が完全に損なわれている。それがどうしてなのか、すごく不思議なんです。

望月 五百旗頭さんのドキュメンタリー観とは次元の異なる身もフタもない話になりますが、相手が権力者じゃない人であればズケズケ訊くけれど、それが権力者になるとまったく及び腰になってしまうというタイプの記者もいると思います。

2019年、滋賀県の大津で、ある保育園の園児が歩いているところに車が突っ込んで、園児が2人亡くなってしまった事故がありました。そのとき園長が取材に対応したんですけど、記者たちがかなり細かく詰めるように訊いて、園長がショックで泣き出すということがあったんです。もちろん、記者として訊かなきゃいけないからこそ、その記者も聞いているのだとは思いましたが、いまの官邸政治部記者たちは、そういう状況で、そういう市井の人相手だったらひょっとして厳しく訊いてしまうのかなとも思うんですよね。

五百旗頭さんの前作、『はりぼて』を観ていると、富山市長にも厳しく迫っていて、権力者にも、一般の取材対象にも、適切な距離を取って厳しく迫ることができる作家だということがよくわかるんですが、大半のメディアの人間というのは、相手が権力者となった途端に、「ははぁ」とひれ伏す感じになる。その感覚が私は気持ち悪いんですね。

でも逆に言うと、そういう大半のメディアの人たちは、普通の市民でも1ヵ月でも2ヵ月でも一緒にいると共感しすぎちゃって訊けなくなるのかもしれない。ただ、本質的にはそういう取材対象者にも訊かなきゃいけないときは訊かなきゃいけない。日本のメディアは、市民には突っ込むくせに、権力者には弱いという感じがしませんか?

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