「バターン死の行進」跡地で触れた「加害の歴史」

一方で、私はこの2年前に日本のNGO主催のワークキャンプでフィリピンの「バターン死の行進」の跡地を訪れ、現地のフィリピン人から戦争体験を聞き、日本の「加害の歴史」に触れたことがありました。あの時のように、自分が知らない元捕虜側の歴史があるなら聞きたいし、何より、彼らが私に何を重ねて見ているのかを知りたい、と思いました。

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祖父の話はとりあえず封印して「あなたの体験を教えてください」と話を聞き始めると、話してくれる元捕虜たちが出てきました。それぞれ別の捕虜収容所にいた方たちなので、体験も人それぞれですが、元捕虜側の歴史というのは大枠では以下のようなものでした。

今から80年前の1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入すると、日本軍はフィリピンに侵攻を開始します。バターン半島とコレヒドール島の米軍とフィリピン軍は、42年4月以降、相次いで降伏、日本軍の捕虜となりました。その後、日本軍が7万人余りの捕虜を約100キロ先の収容所まで炎天下のなか飢餓状態で歩かせ、約3万人の死者を出した「バターン死の行進」は、アメリカでは今も旧日本軍の残虐性の象徴とされています。この戦友会の参加者のうち、約80人の元捕虜が死の行進の体験者でした。

「バターン死の行進=Bataan Death March」。捕虜たちが続々と亡くなっていった Photo by Getty Images

日本軍が捉えた連合軍捕虜のうち、約3万6000人はいわゆる「地獄船(hell ship)」で日本に送られましたが、航海中には連合軍からの攻撃も加わって多くが命を落としました。なんとか生き延びて日本に到着した捕虜たちは全国約130カ所の捕虜収容所に連行され、炭鉱や鉱山、造船所や工場などで働かされました。戦争末期にかけて日本側も物資や食糧難で疲弊するなか、捕虜たちの生活は過酷を極め、終戦までに約3500人が死亡したといいます。死因は飢えや病、労働中の事故や日本軍による虐待、連合軍による爆撃などでした。