高校2年生の時、祖父・稲木誠さんの手記を初めて読み、祖父が岩手県釜石市にある捕虜収容所の所長だったこと、祖父がBC級戦犯として裁かれていた事実を知った小暮聡子さん。そこから戦争とは何か、祖父はなぜ戦犯となったのかを知るべく勉強し、アメリカに留学する。ときは2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロを機に、アメリカがイラク戦争に突き進む時期と重なり、小暮さんは反対の声を押しのけても始まる「戦争の空気」を体感することとなった。

小暮さんが高校2年生の時に出会った祖父・稲木誠さんの手記 写真提供/小暮聡子

小暮さんが高校2年生から今までをさかのぼり、見聞きしたことを伝える「祖父と戦争の真実」第3回目は、22歳の小暮さんが、アメリカ人の元捕虜の集まりに足を運んだ日のことをお伝えする。

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元捕虜たちの戦友会に参加

2003年、イラク戦争を追いかける一方で、釜石収容所の調査も続けていました。ワシントンにいる間、近郊にある米国公文書館で祖父の裁判資料を探しましたが、複数の段ボールに保管された膨大な資料の中に元捕虜の寄せ書きと宛名を見つけることはできませんでした。そんな折、イラク戦争での攻撃に「終結宣言」が出された5月に、ニューメキシコ州アルバカーキーで開かれた元捕虜たちの戦友会に参加することになりました。目的は、釜石にいた元捕虜の方を探すことです。

日本の市民団体「POW(戦争捕虜)研究会」によれば、第二次大戦中、日本軍がアジア・太平洋地域で捕らえた連合軍の捕虜は約14万人いるとされています。私が参加した「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会(ADBC)」は、このうちフィリピンのバターン半島とコレヒドール島で捕虜となったアメリカ兵とその家族が集まり、数日間をホテルで共に過ごしながら戦中・戦後の体験を共有し、次世代に語り継ぐ目的で毎年開催されています。250人の元捕虜が参加していたこの大会でも、最終的に釜石にいた方に会うことはできなかったのですが、私はここで初めて「捕虜側の記憶」というものを知りました。それは私にとって、祖父の過去を知った時と同じくらいショックな経験でした。

まず参加する際、主催側の元米捕虜から私が元捕虜収容所長の孫であることは明かさないほうがいいと言われました。参加者の中には、「今も強い憎しみを持っている人もいるから」というのがその理由です。実際、参加してみると私は逃げ出したくなるほどの居心地の悪さを感じました。名乗るなと言われましたが、22歳の日本人で「リサーチャー」と書かれた名札を胸につけた私は、会場でもとびきり浮いた存在です。私を会に誘ってくれたPOW研究会の笹本妙子さん(笹本さんは釜石収容所について調査していました)はじめ、日本人の参加者も複数いたものの、彼女たちは主催側とも親交があり、私はまったくの新参者でした。

それでも、ワシントンからせっかく飛行機で来たのだから何とか収穫を得ねばと、何人かの元捕虜に話しかけ、どこの収容所にいたのか、そこでどういう経験をしたのかを聞く作業を始めました。しかし、こちらが話し掛けると必ず「あなたはなぜここに来たの?」と聞かれます。私は彼らに対して嘘をつくことがどうしてもできなくて、ついには「……私の祖父は釜石収容所の元所長でした」と言ってしまい、「釜石収容所にいた人を知りませんか」と聞くと「知らない」と言われて会話が終わってしまうことがありました。

中にはにこやかに話しかけてくれる人もいましたが、「自分は本当は歓迎されていないのではないか」という気持ちはぬぐえず、いったい何をしにここに来たのだろうと絶望的な気分になりました。彼らは私のことを何も知らない、祖父のことも直接知らない、釜石収容所にいた人たちでもない、それなのに、そもそも戦争に行ってもいない私をどうしてそんな目で見るの、と悲しさと同時に悔しさのような感情も覚えました。

小暮さんにとっては「大好きなおじいちゃん」でしかなかった…写真提供/小暮聡子