おじいちゃん、東条英機みたいなことしたの?

母によれば私は感想らしきことは言わなかったそうですが、翌日、祖父が書いた他の著作を持ってきました。「中山喜代平」というペンネームで書かれた『茨の冠』(時事通信社、1976年)と、『巣鴨プリズン2000日』(徳間書店、1982年)です。

写真提供/小暮聡子
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戦犯裁判と巣鴨プリズンでの生活を描いたこの2つの著作は、『フックさんの手紙』のポジティブな筆致とは違って、重い内容でした。捕虜の管理に尽力した様子が詳細に記され、戦犯とされたことに納得できない様子がにじみ出ていました。『茨の冠』には、こう記されています。

「戦争中の捕虜の苦痛を思い、自分の収容所から多数の死傷者が出たことを悲しんだ。その遺族の人達の嘆き、怒りを想像すると、石をもって打たれてもいいと思った。だが、犯罪を犯したとは、どうしても考えられなかった

そこに書かれていたのは、祖父にとって戦争は1945年8月15日には終わらなかったこと、そしておそらく戦後もずっと、心の奥底にしまい続けてきたであろう葛藤と苦悩でした。

これらの祖父の戦争体験記は、いくつかの意味で私に大きなショックを与えました。まず、祖父の壮絶な過去を知り、穏やかな祖父の印象とのギャップに衝撃を受けました。次に、「戦犯(せんぱん)」という言葉の強さです。当時の私は、「A級戦犯」は知っていましたが、「BC級戦犯」は聞いたことがありませんでした。私がとっさに思ったのは、「おじいちゃん、東条英機みたいなことをやったの?」ということです。どこから得たのか、「A級戦犯=極悪人」という印象を持っていたので、「戦犯」という言葉に動揺しました。

また「アメリカに裁かれた」ということも、非常に大きなショックでした。当時の私は、アメリカと日本が戦争したことは漠然と知っていたものの、アメリカを「敵国」と認識したことはありませんでした。原爆の話はもちろん知っていましたが、それはどこからともなく降って来て、日本がめちゃくちゃにされて、こんなにひどい戦争はもう二度としませんと平和を誓うという、敵のいないストーリーとして記憶していたように思います。そもそも私が学校に行かなくなったのは、中学時代からNHKで放送され絶大な人気を集めていた『ビバリーヒルズ高校白書』の世界に憧れ、自由なアメリカに比べてよく分からない校則でがんじがらめの日本の学校生活に嫌気が差していたからでした。子供心に、大好きなアメリカが大好きなおじいちゃんを裁いた、という事実はショックでした。

色々な意味で衝撃を受けたわけですが、それらを読んだ後には、フックさんが評価してくれた祖父がなぜ「戦犯」として裁かれなければならなかったのか、とても知りたくなりました。

小暮さんの祖父の稲木誠さん。自宅前にて 写真提供/小暮聡子

祖父と戦争の真実第2回では、小暮さんが「戦犯」について学ぶことを決め、アメリカにわたって「現実の戦争」に直面したときのことをお伝えする。