1945年8月15日。その前日に日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は実質的に終わった。この戦争で、世界中の人々が大切な家族や友人を失い、傷つき、その痛みは今もさまざまな形で残されている。

戦後76年になる今年、岩手県の釜石市郷土資料館である企画展が開催されている(緊急事態宣言により臨時休館中、宣言開けに展示期間を延長予定)。「釜石の捕虜収容所―記録と記憶を後世へ―」というテーマで、戦時中に釜石収容所の所長を務め、戦後は「戦犯」として有罪となった日本人収容所所長の手記と、当時捕虜となっていた方々の手記、その両方を展示するものだ。

この所長、稲木誠さんはなぜ戦犯とされたのか。捕虜収容所で何があったのか。その現実に向き合い、長く調べてきたのが、『ニューズウィーク日本版』記者の小暮聡子さんだ。小暮さんは20年以上前、高校生のときに祖父である稲木さんが捕虜収容所の所長だったことを知ったのだという。終戦から76年目の今日、高校時代にさかのぼり、小暮さんが「祖父の過去」「戦争」と向き合ってきた道のりを「祖父と戦争の真実」と題し、5回に分け率直に伝えてもらう。現代に生きる小暮さんが体感した「戦争」とは何か。第1回では、高校2年生のときに「祖父の過去」を知った時のことをお届けする。

-AD-

高2の夏に知った衝撃の事実

「おじいちゃんの記憶」というのは、だいたい何歳ごろから鮮明に覚えているものでしょうか。私は現在40歳ですが、祖父は私が7歳になる直前に亡くなっているので、具体的に覚えている情景や出来事はそれほど多くありません。それでも、祖父母は栃木県宇都宮市の実家から車で15分ほどのところに住んでいたため、よく遊びに行っていた記憶はあります。私が覚えている祖父といえば、穏やかで、時々ジョークを言って笑わせてくれる、とても優しいおじいちゃん。居間の座椅子に腰かけ、新聞を読んでいる眼鏡姿の祖父も目に浮かびますし、英単語を教えてくれたことも覚えています。私の鼻を指差して、これはノーズ、といった具合にです。

その祖父・稲木誠が「戦犯」だった、と知ったのは1997年、私が高校2年の夏でした。当時の私は反抗期まっさかりで、ろくに学校に行かずにバイトに明け暮れ、他校の友人と夜遅くまで遊び歩くような生活をしていました。そんな私に母が「これ読んでみて」と持ってきたのが、戦後は時事通信社の記者として働いていた祖父の戦争体験記でした。

『フックさんからの手紙』(時事通信社「週刊時事」1984年9月15日号から8週連載)と題された手記を、一気に読んだ記憶があります。そこには、次のようなことが書かれていました。

祖父は1944年4月から終戦まで、岩手県釜石市にあった連合軍捕虜収容所の所長を務めていたこと。その間に釜石市は連合軍による艦砲射撃を受け、釜石収容所にいた約400人の捕虜のうち32人が亡くなったこと。戦争が終わると祖父はその責任などを問われて「BC級戦犯」となり、米軍管理下の巣鴨プリズンに5年半拘禁されたこと。祖父は捕虜の公正な管理に努めたと考えていたけれど、それでも重労働7年の有罪判決を下されたこと。それから時はたち、戦後30年目の1975年、釜石収容所にいたオランダ人の元捕虜フックさんから釜石市長に手紙が届いて「収容所での取り扱いは良く、重労働を強いられることもありませんでした」と書かれていたこと。これをきっかけに祖父とフックさんは文通を始め、収容所での生活を振り返ったり、互いの家族の話をしたりしながら友情を育んでいったこと――。

小暮さんの母が渡してくれた「おじいちゃん」の手記 写真提供/小暮聡子
釜石捕虜収容所の所長交代に際しての記念写真。前列右側で軍刀を所持しているのが、小暮さんの祖父の稲木誠さん COURTESY DAVID PECK