2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ。飛行機が勤務するビルに突入してしまい、犠牲となってしまった杉山陽一さんの妻・晴美さんが、20年前を忘れてはならない思いで綴る連載「あの日から20年」。

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当時お腹の中にいた赤ちゃんが半年後の2002年3月11日に誕生し、まるで誕生を待っていたかのように、時を同じくして行方不明だった陽一さんの遺体の一部も見つかった。アメリカでのお別れの会を終え、帰国前後についてお伝えする連載14回目の前編では、まだ陽一さんがそこにいるであろう「ワールドトレードセンター」跡地の「グラウンドゼロ」の隣に子供たちと訪れた、帰国の途についたことを伝えてもらった。後編では、帰国し、8月に陽一さんの誕生日を迎えたときのことをお届けする。

 暑さと時差ぼけ、多忙な日々

【8月】
約2年ぶりに帰国した。日本の夏は暑かった。帰国前、皆に脅かされていた。
「日本はものすごく暑いよ。亜熱帯気候のよう。覚悟して帰っておいで」

誰にメールしても、電話しても、返ってくる言葉は「暑い、暑い、暑い」。相当暑いのだろうと覚悟の上だったのだが、その覚悟すら吹き飛ばされてしまうほど暑かった。

わたしは、東京都内の実家マンションの別室に住むことがすでに決まっていた。帰る先があるというのは楽ではあったが、都心で家々は建て込んでおり、部屋も狭苦しく窮屈なため、暑さも格別であった。

さらに、3人の子供たちは、三者三様の時差ぼけをおこした。太一は、昼間2時をすぎると寝入ってしまい、夜中の2時には目を覚ましてしまう。力斗は一番まともではあったが、夜中に寝ぼけて大声で叫んでしまう。そして想弥は、昼間はミルクをほとんど飲まず、逆に夜中じゅう飲み続けてしまう。

わたしには寝る時間はもちろん、身体を休める時間すらなかった。荷物も続々到着し、部屋は段ボールで埋まっていく。どこから手をつけていいのやら。想弥をおんぶ紐でおんぶし、上の子ふたりを荷物から遠ざけ、汗をふきふき荷をほどいた。

杉山家の3兄弟。元気なのはとてもいいことなんですが… 写真提供/杉山晴美
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それに加えて、帰国後は手続きが目白押しだった。今回は夫が亡くなったという環境の変化もあったため、余計やることは多かった。それもすべてわたしひとりでやらねばならない。わたしが3人くらい欲しい。本気でそんな馬鹿げたことを思った。

去年の9月から、走りづめだった気がするが、なかでもこの8月は、相当にきつかった。だいたい、暑い最中に帰国してきたというのもかなり無謀だったが、これはアメリカでのアパートの更新の関係で仕方のないことではあった。いまさらどうこう思っても仕方がなかった。とにかく生活を立ち上げなくてはならないのだ。暑さに負けてはいられなかった。

わたしが倒れたらどうなるのだろう? そんな恐怖も頭をよぎった。よく生きていられるなとまで思う状態の中、風邪ひとつひかず元気でいる。わたしは相当丈夫らしい。忙しさと暑さの中、子供たちにせがまれ、炎天下の公園通いまでしているのに。こんな丈夫な身体に産んでくれた親にまたまた感謝だった。