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ラクダをプレゼントされた遊女――丸山遊女が憧れた究極の成功者の姿とは

シーボルトと丸山遊女「其扇」の出会い
19世紀初めに出島に駐在した商館長ブロムホフと、一番の馴染みだった「糸荻」という遊女。遊女たちの収入によって潤った都市長崎の姿。丸山遊郭の遊女たちが理想としたのは、どのような成功者の姿だったのか。
長崎の丸山遊女に対する新たな視点を提起した最新刊『長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド』から、市中の人々を潤すほどの収入を得た遊女たちについて述べた箇所を抜粋して公開します!
 

ブロムホフをめぐる6人の遊女

ブロムホフの初来日は文化6(1809)年。はじめは荷倉役として勤務した。同九年に遊女「糸萩」との間に女児をもうけたが早逝した。

その後、当時の商館長ヘンドリック・ドゥーフから派遣された先のバタビアでライバルのイギリスに拘束されたが、解放後オランダに帰国してティティア・ベルフスマと結婚、同14年、妻子、乳母、召使を連れて来日して人々を驚かせた。なにしろ、日本人が西洋の女性を見たのはこれがはじめてのことだった。

妻子はすぐさま送還されたが、その後は商館長として勤務し、文政6(1823)年、オランダに帰国した。彼はわが国の英語学習への貢献、西洋婦人として初めて日本を訪れた妻ティティア・ベルフスマの存在によって有名である。

「か様」と呼ばれて「花」から手紙をもらった時期は、妻ティティア帰国後のカピタン在任中だろう。6人の遊女がブロムホフの指名をめぐって手練手管を繰り広げていたことが、「花」の手紙から窺われる。

この「花」の手紙はブロムホフからの手紙の返事にあたる。返事が遅くなったわけを体調不良のためとして詫びている。ブロムホフのおかげで「盆の席」を祝うことができたと、盆行事の援助の礼を述べている。

また、いつも「お金」のことばかり申し上げてお困りと察しているが御腹立てにならないようにとお願いしている。そして、「しま(出島)」へ呼んでもらうことを神かけて朝夕念じていると述べて手紙を終えている。

「花」は時々呼ばれて出島に行く程度でしかなかったらしく、手紙からは必死さが伝わってくる。カピタンはまさに上客中の上客、「花」の稼ぎはカピタン・ブロムホフ次第であった。だがブロムホフは、「花」を呼べば何だかんだと金の無心をされるので、頻繁に呼ぶには至らなかったのだろう。

ブロムホフと「糸萩」

ブロムホフ最初の来日で子をなした「糸萩」は出産後、出島で子育てをした。不幸にも女児は早逝してしまったが、育児のために乳母も形式的な遊女となり出島入りを許された。「糸萩」と同じく門屋抱えの源氏名「萩の戸」という乳母遊女である。

ブロムホフ2回目の来日は商館長としてであった。伴侶のティティアと幼児、その乳母などを連れた来日として注目され、西洋婦人の美貌は評判となった。その姿は長崎の民芸「古賀人形」西洋婦人として今なお親しまれている。残念ながら女性の出島滞在は許されず、乗ってきた船でバタビアに送り帰された。

妻子と引き離された失意のブロムホフを慰めたのもまた遊女であった。ブロムホフは荷倉役であった前回来日の時よりも、断然収入も多く(本俸は1500ギルダー=1500万円、副収入はその10倍以上)、引田屋抱えの遊女「糸萩」を呼び寄せ出島で悠々と暮らすことができた。

ブロムホフの子を産んだ「糸萩」は、2度目の来日の時はすでに廃業して久しく、同名の「糸萩」か、ブロムホフが「糸萩」と改名させたものか、全く別人の遊女「糸萩」を迎えた。

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