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年中行事の中で華やかな存在感を放つ遊女たちは、市民の憧れの的だった

人気遊女の「踏絵」に押し寄せる群衆
遊女たちが大挙して参詣する宣伝道中、第1回諏訪祭礼で見せた「音羽」と「高尾」の名舞踊――長崎の市民たちは丸山の遊女をどのように見ていたのか?
長崎の丸山遊女に対する新たな視点を提起した最新刊『長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド』から、年中行事と遊女の関係について述べた箇所を抜粋して公開します!
 

 年中行事の中の遊女

また『延宝版長崎土産』の記された延宝期は長崎の街が落ち着き、現代の長崎につながる文化や風習が始まったころでもあった。

それまでの試行錯誤の末に街の年中行事が固まり、一年を暦と年中行事にしたがって、日々の小さな変化を楽しみながら楽しく平穏に暮らせるよう、さまざまな工夫がなされていた。そのような中、丸山遊女も華やかな存在感を放つようになっていった。

『長崎歳時記』(野口文龍著 寛政九〔1797〕年初版)は長崎の年中行事を月ごとにまとめた史料である。何代にもわたって筆写され、その都度、加筆されている。記録された行事の中には、一世代後の天保期にはすでに行われなくなったり規模が縮小または本来の意味から逸脱したりした行事に変わったものなども見られる。

この中に、遊女に関わる行事や遊女が参加する行事がある。遊女が見物に訪れるだけという行事が多く見られるが、これは行事に付加価値を添える役割が遊女に期待されていたからだろう。

行事と遊女の関係を確かめることは、市民生活の中における遊女の存在を知るうえでも有効であろう。ここでは、幕末慶応の写しを用いてみてゆこう。

人気行事となった踏絵

正月8日には、丸山・寄合両町で「踏絵」があった。『歳時記』では、行事名は「絵踏み」といわず、踏む行為も踏絵と称している。

「両町の踏絵は遊女ども美麗をつくし行儀あることゆえ、以前は市中の遊冶児ども姿をへんじ面を覆うて見物にいたる、其後群衆の者ども町役人と口論出来てより今見物のもののややおとろうという、旅客などもっとも見物に行く」としている。

「踏絵」は正月4日江戸町を皮切りに、8日の丸山・寄合両町を経て9日まで連日行われた。人口の多い町は踏絵1枚を終日かけて踏ませ、少ない町は午前午後に分けて他町と一緒に割り当てられた同じ1枚の踏絵を踏んだ。踏絵の管理は厳密で、当日朝、奉行所の宗門蔵から貸し出され、乙名、組頭、日行使、さらに借家惣代までもが立ち会って踏ませた。

「踏絵」は、町内各家を町役人が持ち廻りですべての住民に踏ませ、台帳に当人の印形をとり、後に旦那寺の印形をとって踏絵帳として奉行所に提出するという手続きをとっていた。ふつう玄関の土間に続く部屋で行われ、外からも見えるようになっていた。

丸山遊女の踏絵は人気遊女の生足が拝めるというので群衆が押し寄せる人気行事となっていた。遊女たちもそれを意識しておしゃれをして臨んだ。

踏絵を踏む行為は、すべてがキリシタンであった長崎の住民には、当初、緊張感のあるものであったが、それらが忘れ去られた江戸時代中期以降は、なぜ踏絵を踏んだり踏ませたりするのかその意味も忘れ去られ、このような年中行事の一つとなっていた。

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