都市長崎にとって、長崎丸山遊廓の遊女たちはどのような存在だったのか

長崎に丸山という所なくば……
赤瀬 浩 プロフィール

長崎という個性的な都市

江戸時代の長崎の人々は、驚くほど狭い範囲で生きていた。市中は出島と傾城町である丸山・寄合の両町を合わせた80ヵ町で構成されていたが、その範囲は現在の公立小学校の校区1つ分程度でしかなかった。その中に最大6万人の人口を抱え、人口密度は全国で最も高く、どこも人であふれていた。

その中には、初めはポルトガル人、後にはオランダ人、そして唐人という外国人も雑居し、あるいは生活圏のど真ん中に彼らの居住区を抱え込み、まさに一つ船のような外国人を含めての運命共同体、それが長崎という個性的な都市の土台であった。

松井洋子氏は、遊女の揚代が輸入品への支払いの一部として相殺されるなど、異国人の存在は長崎の遊廓社会の特質を形作る大きな要素であったとして、長崎の遊廓社会の他都市とは異なる性格を明らかにした。さらに、遊女の稼ぎに寄生して働かない父母や兄姉がいたことなど、他都市には見られない独特の構図があったことも指摘している。

長崎の丸山遊廓は、江戸の吉原遊廓、京の島原遊廓、大坂の新町遊廓と並び称されたが、長崎が幕府公認の対外交易港であったことや、地形的に限定された狭い場所に市街が展開していたこと、加えて郊外の農村が貧弱だったことなど、たしかに松井氏の指摘されるとおり、他の遊廓との環境の違いは大きかった。

長崎は対外貿易港であったが、そこで取引される製品に長崎で生産されたものはなく、また貿易に携わる商人も、先の西鶴の作品にもあったようにもっぱら京大坂の大商人であった。言うなれば長崎は「場所」を提供し、貿易の事務手続きを請け負いその手数料を得るだけで、「商売」の主役ではなかったのだ。

手をこまねいていては貿易の「上がり」は長崎住民の頭の上を通りすぎていくだけだった。対外貿易の「上がり」をできるだけ長崎に落とさせる、そこに他の都市の遊廓とは異なった長崎丸山遊廓の存在意義はあった。

 

長崎の遊郭社会

他の遊廓のように、長崎の遊廓は、都市生産力の余剰として若い女性が流入したのではなかった。長崎において遊女が特別な存在とされたのは、なによりもまず、都市長崎があまりにも小さく、あまりにも貧しいからだった。

地場の生産力の不足を補うために都市に貿易の利益を還流させるという重要な役目を担っていたのが遊女たちであった。つまり、遊女は長崎の第一の「商品」であったのだ。

丸山遊女の多くは長崎市中や近郷の貧しい家庭の出身であった。したがって、「籠の鳥」として、親元からは切り離され、孤独な生を営むことを余儀なくされていた吉原をはじめとする他の遊廓とは異なって、長崎の場合、ほとんどの遊女は実家と密に連絡をとり、遊女となった後にも地域社会の構成員としての意識をもちつづけていた。

また奉行所をはじめ、都市をあげて遊女を保護し、嫌な仕事は拒むことも可能だった。長崎の街は一つの運命共同体であり、住民の生活が成り立つようにするためには、他所から訪れた商人が長崎で得た貿易の利益を丸山で揚代や贈物として吸い上げ、そのようにして得た利益を回して貧しい借家人まで潤してゆかなければならなかった。

そのような「トリクルダウン」の手段として、丸山遊女の果たす役割はすこぶる大きかった。それゆえ、現代の価値にして数千万円の収入を得る可能性もある遊女は、むしろかならず、長崎市中の出身者でなければならなかったのだ。

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