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都市長崎にとって、長崎丸山遊廓の遊女たちはどのような存在だったのか

長崎に丸山という所なくば……
長崎にかつて存在した、江戸の吉原や京の島原などと並び称された丸山遊郭。江戸公認の対外交易港でありながら、「商売」の主役ではなかった都市長崎にとって、丸山遊郭の存在意義とは何だったのか?
長崎の丸山遊女に対する新たな視点を提起した最新刊『長崎丸山遊廓 江戸時代のワンダーランド』から、序章の全文を特別公開します!
 

「長崎に丸山という所なくば」

『好色一代男』などの「好色物」で一世を風靡した井原西鶴が、従来の好色物や武家物から、町人の経済生活を主題とする町人物へと進出する嚆矢に位置づけられるのが『日本永代蔵』である。

その中の一篇、「廻り遠きは時計細工」は長崎を舞台としているが、そこには当時の長崎について、次のように記されている。

「日本富貴の宝の津、秋船入りての有りさま、糸、巻物、薬物、鮫、伽羅、諸道具の入札、年々大分の物なるに、これを余さず。たとえば雷のふんどし、鬼の角細工、何にても買取り、世界の広き事思いしられぬ」

全国から集まり、唐船やオランダ船によってもたらされるさまざまな品物に群がる商人、噓だとわかっていてもまがい物でさえ売れるような活気ある街、ここに記されているのはそんな長崎の姿である。

「唐物」と呼ばれる舶来品を天下の台所、大坂に運べば、労少なくして大金を儲けることができる。そのためにはいくばくかの資金をもって下りさえすればなんとかなる。

西鶴が長崎を舞台にしたのはこのように、長崎には多くの商機があると当時の人々が考えていたからであった。もっともほんとうにそうであれば、長崎の商人はみな大金持ちということになるだろうが。さらに同書は、長崎の遊廓・丸山について、こう記している。

「長崎に、丸山という所なくば、上方の金銀、無事に帰宅すべし」

この言葉にこそ長崎、そしてその遊廓・丸山の本質がある。長崎で得た利益は一文でも多く長崎に落とさせる。そのようにして他所の富を市民に還流させることにこそ、長崎住民にとっての丸山遊廓の存在意義があったのだ。

奇妙な風習

『日本九峰修行日記』は、文化9(1812)年から翌年にかけての足かけ2年、長崎に滞在した修験、野田成亮の日記である。修験者として日本国中を旅して記したものだけに、当時の庶民の生活を知ることのできる貴重な資料となっている。

野田は「長崎に他国に無き珍しきこと19ヶ条程あり」として、よその地域では見られない長崎独自の風習を記している。

その中には「既婚女性が眉を剃らない」、「他家の娘を奪って嫁にする『嫁盗み』という古い風習が残っている」、「『口入れ屋』と称する若者がしばしば民間のトラブルに介入し、『解決金』を要求する」といった風俗に関わるものや、現在でも長崎独自のものとして知られている「精霊流し」、「しっぽく料理」などに関する記述が残されているが、そこに、「娘を遊廓に売ることがいたって日常的で、娘の器量を褒めるのに『この娘は一晩で銀300〜500匁(現在の金額にしておよそ60万〜100万円)を稼ぎますよ』と言うと親がとても喜ぶ」という記述がある。

「この子は売春をすれば大金を稼げますよ」と人に言われて親が喜ぶというのは、現代では考えられない、とんでもないことだろう。もっともそれは当時も同じであり、だからこそ野田は長崎の「奇妙なこと」の一つにこれを挙げているのである。

だが、たとえ一見、常識には外れたことであれ、このような言動がなされるには、やはり何らかの理由があったはずである。

その理由の一つとして、長崎の遊女の収入が莫大であったことを挙げなければならない。本書に登場する遊女たちは10歳ごろから25歳ごろまでの長期間、年季奉公として10両ほどの身代金(約100万円)を背負って商売をはじめ、運と実力があれば揚代だけで年間1000万円を超え、プレゼントに至っては一度に数百万円単位のものを得ていた。

その収入は本人の貯蓄のみならず家族や親戚、出身の地域社会まで潤すことができた。娘たちだけが持っている可能性を生かしたサクセスストーリーが丸山遊女にはついてまわっていたのである。

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