イラスト/植田たてり

宗教では、「発声する」ことによって「聖なる場」が出現する

「宗教の本質」とは? 往復書簡 第三信・A
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い、当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について、往復書簡で意見を交わす。今回は、若松氏の第二信・Bを受けて書かれた、釈氏の書簡を公開する。

第一回はこちら

今回のテーマは「発声する」

ご返信、ありがとうございました。「信じる」について二往復したわけですが、多くの示唆をいただきました。実に楽しいです。やはり宗教体系というのは、常に「私、今、ここ」の在り様を問うてきますね。だから、信仰や信心は決して“思い出”にはならない。その都度その都度、非連続の連続的(@西田幾多郎)に生じるようなものではないかと実感しました。

 

「信じる」について語り合っていると止め処がありませんので、このあたりで次の案件へと進みたいと思います。今回は、「発声する」ではいかがでしょうか。

たとえば、称名念仏ではしばしば「発声した声がそのまま仏である」といった考え方をします。「南無阿弥陀仏」という言葉が、そのまま私を救ってくださる仏さまだというのです。よく知られた造形ですが、京都の六波羅蜜寺にある空也上人像では、上人の口から「南無阿弥陀仏」の六字が仏となって飛び出しています。煩悩を抱えた凡夫である私の口から、悟りそのものである仏が飛び出るんですよ。実に興味深い思想ではありませんか。

空也上人像(六波羅蜜寺所蔵 photo by Wikimedia Commons)

宗教聖典は、声を出して読むもの

そもそも宗教聖典というのは、声を出して読むようにできています。これは、ほとんどの宗教に共通しています。ですから、多くの宗教聖典では、対句が活用されていたり、韻を踏んだり、できるだけ調子良く読めるような単語を使ったり、工夫が施されています。声に出して読むことによって、その教えが身体化していきます。

黙読というのは、近代になってから始まったそうです。書かれたものは声に出して読んできた歴史の方がずっと長いわけです。特に宗教聖典は、みんなで合誦するようにできています。みんなで声を出して読誦するのです。合誦によって、そこに聖なる場が出現します

私が学生の頃、ヨーロッパでいろんな宗教者が集まる会議がありました。私は見学する機会に恵まれたのですが、その会議のセレモニーで、日本の僧侶が「往生礼讃」を情感に溢れた独特の旋律でお勤めしたんですよ。見事な声明(しょうみょう)でした。お経なんて一度も聞いたことのないヨーロッパの他宗教の人々が滂沱の涙を流していましたから。音声(おんじょう)の力って、すごいものですね。

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