徳川家康が「人生で1番失礼」だと激怒した手紙、一体どのような内容だったのか?

上杉vs徳川、関ヶ原前の「攻防」
今福 匡 プロフィール

家康は、兼続からの返書を目にして、「我六十三(実際は五十九)に及べども、斯かる無礼の文を、手に取らず。是偏に、景勝が所為なるべし。近日、会津へ発向して、速に退治せん」(『関原軍記大成』)と、激怒したと伝えられている。

家康にとっては、前田家と違い、上杉家が真っ向勝負に乗ってきたために政権簒奪に向けて軍事行動に移る格好の口実ができた、という解釈が一般的である。

大阪城天守閣蔵の徳川家康像[ウィキメディア・コモンズ]
 

だが、この時期、家康にとっても豊臣恩顧の大名たちに会津攻めの命令を下せるか、下したとしても、諸大名がこれに従うかどうかは未知数だったはずである。そして、家康の使者である伊奈図書、河村長門の両名はまだ帰還していない。家康は直江の返書を実際に手にとって読んだかどうかはわからないが、粛々と会津出兵の可能性を探っていたと考えられる。

しかし、5月7日には、徳川家康に対し、長束正家、増田長盛、前田玄以、中村一氏、生駒親正、堀尾吉晴らが連名で上杉討伐の諫止を試みているなど、事態は予断を許さなかった。

その折の豊臣家奉行らが連署した書中には、

「今度直江の所行、相届かざる儀、御腹立御尤に存じ候、さりながら、総別今迄何の仕合も仕らず、誠に田舎人にて御座候不調法故、此の如くに御座候」

とあり、奉行たちは兼続の所行を不届きであるとしながらも、田舎者ゆえの不調法である、と家康の会津征討を翻意させるのに必死であった。

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