徳川家康が「人生で1番失礼」だと激怒した手紙、一体どのような内容だったのか?

上杉vs徳川、関ヶ原前の「攻防」
今福 匡 プロフィール

使者を迎えた景勝は「逆心之讒言」に対して存分があったけれども、万事をなげうって上洛する旨を使者に回答したとみられる。後述の景勝書状中に「就之存分雖有之、元来無逆心筋目之条、抛万事可令上洛覚悟落着」の一文がある。自らが豊臣家に対する逆心を抱いていないことを証すため、万事をなげうって上洛する覚悟があると景勝は記している。

ただし、自ら上洛する条件として、上杉に逆心ありと訴えた者に対する糺明を求めた。

豊臣秀次が処断された直後、景勝は徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家とともに五ヶ条の掟書に署名している。この中に、「無実之儀申し上ぐ輩これ有らば、双方召し寄せ、堅く御糺明を遂げられべき事」という一条がある。景勝の謀反の風説、上洛問題が浮上した今、上杉側が讒言をなした者の「御糺明」を頑なに主張したのは、この掟書が念頭にあったためと考えられる。

上杉神社所蔵の上杉景勝像[ウィキメディア・コモンズ]
 

徳川方からの「最後通牒」

江戸城にあった徳川秀忠は、3月までは景勝との間で音信をかわしていたが、月がかわって、4月20日付けで浜松城主堀尾忠氏に出された書状には「北国之義」「会津之義」という言葉がみえる。「北国之義」とは、先に家康暗殺の企みに与したと疑われた加賀前田利長の一件である。これは、前田家が膝を屈するかたちで決着がつき、大坂にいた利長の母芳春院(前田利家後室)は江戸へ移されることになった。

そして、「会津之義」すなわち景勝の上洛問題について、秀忠は「ただ今の状況では(景勝は)上洛しないだろうと聞いている」と堀尾に伝えている。

兼続による返書(「直江状」)は、5月6日までには上方に達していた。

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