大阪城天守閣蔵の徳川家康像[ウィキメディア・コモンズ]

徳川家康が「人生で1番失礼」だと激怒した手紙、一体どのような内容だったのか?

上杉vs徳川、関ヶ原前の「攻防」
「越後の龍」と呼ばれた戦国大名・上杉謙信。その後を継いだ上杉景勝は、知名度の割にどのような人物だったのかさほど知られていない。彼の人生を記した新刊『「東国の雄」上杉景勝』から、関ヶ原前の「攻防」を紹介する。

豊臣秀吉の死後、景勝は政治の中心である大坂を離れて、国許の会津で領国整備にいそしんでいた。しかし豊臣政権を打倒するために戦の口実が欲しい徳川家康は、景勝の行為を「謀反」として既成事実化しようと企む。まずは家康の意向を受けた僧侶・承兌が、親交ある上杉家重臣の直江兼続に、景勝の上洛を促す書状を送る場面から始めたい。
 

家康が遣わした使者

4月1日に西笑承兌(さいしょうじょうたい、相国寺の禅僧)は、兼続への書状をしたためて、同日、相国寺の塔頭豊光寺へ帰還したのであるが、『鹿苑日録』三月二十九日条には、「豊光和尚、大坂より未だ帰宅無し云々」と記され、承兌を気遣う様子がうかがわれる。

承兌は、3月中に大坂に呼び出され、上杉景勝詰問状の案文を作成し、豊臣家の奉行や徳川家の重臣たちと協議を重ねていた。承兌の書状中には、「京都にて増田右衛門、大谷刑部少輔が万事、内府と申し合わせている」という文言がみられる。対上杉の協議には、増田長盛、大谷吉継の両名が加わっていた。

その書状が会津の兼続のもとへ届いたのは、12日後の4月13日であった。

承兌は、直江兼続に八ヶ条の条書をしたため、間もなく家康の使者として伊奈図書・河村長門の両名が下向する旨を伝え、上方で取り沙汰されている疑念を列挙している。上杉家への詰問状といった体裁となっており、これに対する返書が、いわゆる「直江状」である。

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