大きな問題に直面した時こそ、「夫婦」の姿は浮かび上がる。しかしその大きな問題によってどちらかが命を落としてしまったとき、残されたパートナーはその浮かび上がった夫婦の姿をどのように見るだろう。

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロで行方不明になってしまった杉山陽一さん。妻の晴美さんと結婚してから、2002年1月18日には結婚10年目の節目を迎えるところだった。テロ事件は3歳と1歳の男の子、そしてお腹の中にももう一人いる状況で、夫婦の形を作り続けているさなかのことだったのだ。20年経った今も決して忘れてはならないとの決意で送る晴美さん連載「あの日から20年」、7回目はふたりの「結婚」についてお届けする。立教大学スキーサークルの4年生と1年生として出会い、晴美さんが社会人になったあとに学生時代の陽一さんと付き合うようになった過程をお届けした前編に続き、後編ではすぐに結婚に至るまでと、晴美さんが思うおふたりの「夫婦の形」をお届けする。

NYに駐在にいくときに成田空港で撮影した写真 写真提供/杉山晴美
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彼が学生のうちから結婚を決意

時間がかかることなく、「大恋愛」に陥ってしまったわたしたち。
そんなふたりだっただめ、付き合い始めた当初から「早く一緒に暮らそうね」といつも言っていた。彼は学生だったにもかかわらず、そう言っていた。
「結婚したいと思う人が現れたら、それが、いつどんな状態でも、迷わず結婚すべきである」
と、彼はある人に言われたことがあり、その言葉を信じていた。

いま思うと、なんだか生き急いでいるような感じもする。もう、すでに運命は流れ始めていたのだろうか? 「あの日」に向かって、彼は走り始めていたのか? いや、そんな悲しいことを考えてはいけない。いつだって、彼は真剣に自分の人生を生きていただけなのだから。

彼が在学中に、すでにふたりの間では結婚の意識はたかまっていた。就職活動の際も、彼はわたしに「どんな会社がいいだろう?」と意見を求めてきた。

けれど、この問いにわたしはこう答えた。
「それは、わたしには判断できない。あなたが、あなたの意志で会社を選ぶべき。自分が行きたいと思う会社で、思いっきり働けばいいじゃない」

本当に熱心に就職活動をしていた。靴が擦り切れるほど歩き回り、OBの声を集め、会社をまわっていた。そして、最終的に銀行中心の活動になっていった。最終面接までいって落ちた銀行もあった。泣いていた。悔し涙を流していた。

就職活動は誰にとってもキツイものだ…(写真はイメージです)Photo by iStock

そんな中、富士銀行の内定がおりた。あの日のことは、忘れられない。わたしは会社で働いていたが、そこに彼は電話で連絡してきたのだ。この時はわたしが泣いた。よかったね。ほんとに、がんばったね。

結局、商社も希望していた彼だったが、富士の内定がおりた時点で、ほぼ心を固めたのである。ここでも、どうしても考えてしまう。ニューヨークへの階段。

あの時、胸騒ぎでも感じて、止めてあげればよかったのか? 泣いて喜んだわたしは馬鹿だったのか? いやいや、やはり、そんなことは考えまい。繰り返すようだが、あの時も、ふたりとも精一杯生きていたのだ。人生とは、一生懸命生きてこそ、どんなに短くとも輝くものだと、今はそう信じたい。