セクハラという言葉を知って「やっぱし!」

『いっぱしの女』にはさまざまな話題が登場するが、とりわけセクシャルハラスメントにまつわるエピソードは、強いインパクトをもたらす。

たとえば、セクシャルハラスメントという言葉を知ったことで、〈あのテのことに傷ついていた同胞はたくさんいて、わたしひとりが怒りっぽく、我慢が足りない、というわけではなかったのか、やっぱし!〉と自らの体験を再定義した〈なるほど〉の項。

あるいは、ファンレターを装った卑猥な手紙を受け取ったことをめぐって、〈私が私であるために受ける不利益は甘受できる。けれど、宿命的に与えられた性に限定して向けられる無記名の悪意は、その無記名性ゆえに、私を激しく傷つける〉とつづる〈それは決して『ミザリー』ではない〉。

「大変な痛みや怒りを抱えつつも、氷室さんの言葉はどこまでも軽やかです。こんな風に世の中を見つめ、ものを書いている人がいたのかと圧倒されました。加えて氷室さんは、“女”の苦しみの話だけでは終わらせない。〈評論家たちの熱心な言説は、その孤独な、たったひとりの男の子さえ癒せない〉と、自分に傷を負わせたものについてもきちんと見ようとしている」

今よりも女性に立ちはだかる壁が高い時代のなかで、氷室は女性蔑視に対する痛みや怒りを明確に言語化していった。その勇気や真摯な言葉は、時を超えて私たちの胸を打つ。

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『いっぱしの女』は女と女をめぐるエピソード集や、カルチャー論といった一面ももつ。娘の結婚を願うあまり暴走する母親をユーモラスに描いた〈一万二千日めの憂鬱〉や、女ともだちとの同居を通じて知った幸福感と孤独を語る痛切な〈夢の家で暮らすために〉など、印象深いエピソードも数多い。ほかにも、70年代少女漫画への愛と当時の評論への失望や、映画『カラー・パープル』を題材に綴る女性同士の連帯への熱い想いなど、氷室さんらしい着眼点が光る。

砂金さんは収録されたエピソードについて「どれも『本当にそのとおりです!』とうなずかずにはいられない」となりつつも、いっぽうで氷室さんが“わかる”という言葉を軽々しく使う傲慢さを指摘していることにも着目する。〈一番とおい他人について〉のなかで語られる、“わかる”という感覚と、そこに安易に乗りかかってはいけない自制を、氷室さんの言葉はもたらしてくれるのだ。