「野球道」「相撲道」など…乱立する“道”と日本人の危うい関係

今こそ知りたい! 「方法論」より「目的論」(9)/終
安田 秀一 プロフィール

日本人と「道」の危うい関係

究極の目的論である「武士道」精神を、アスリートに安易に重ねることに些かの危惧を覚えているとはどういうことか。たとえば「侍ジャパン」「サムライブルー」という感じで、アスリートと武士を結びつけられることが多くなってきました。また、さまざまな競技で「野球道」や「相撲道」など「道」を唱える選手や指導者もいます

Photo by iStock
 

たしかに、日本人の物事に真摯に取り組む姿勢や、礼節をもって心身を鍛錬するスタンスは、日本のスポーツ文化に受け継がれているのは明らかです。日本のスポーツの源流に、「武士道」があるということにはまったく異論はありません。

そもそも「武士道」という言葉を定義し、世に広めたのは新渡戸稲造で、戦で殺し合いをしていた時代には「武士道」などという概念はありませんでした。江戸時代になって侍が「ウォーリアー(戦士)」でなくなったことで、剣術も戦場で相手の命を奪う実戦的な殺人術から、武芸を通じてキャリアをつくる、つまり人格形成の一助とするというスキルへと変貌を遂げていきます。その過程で、精神に主眼を置いた「武士道」という概念が生まれ、「葉隠」で一定の定義づけがなされました。

そのような意味では、現代スポーツにおけるメンタルトレーニングと近い部分もあり、日本人がスポーツをするうえでこの「武士道」という概念が出てくるのは、きわめて自然の流れだと考えています。

ただ、それだけにこの「道」という言葉の威力は強く、人を支配するうえで悪用されてしまっている場面を僕は何度も見てきました。これを引っ張り出すと、教えを乞う側を、どんな不条理なことでも受け入れなくてはいけないという同調圧力に屈させることができるからです。

たとえば、強豪で知られる高校野球の有名校で、名将と呼ばれる監督が、選手たちにスポーツ科学とかけ離れた「しごき」のような練習をさせていたとしましょう。あまりに前近代的で根性論のような練習内容に、選手から疑問の声が上がりますが、この監督はこう言ってのけます。

「これが野球道というものだ」

こう言われたら選手は反論できません。つまり、スポーツ指導者が唱える「道」には、そのやり方についてまったく異論を挟ませないというムードをつくって、「強くなりたければ黙って従えばいいのだ」と言わんばかりに、選手や子どもたちを屈服させることに利用されてしまうおそれがあるのです。

関連記事

おすすめの記事