2021.07.20

精霊を見よ――ピダハン

「社会性の起原」92
大澤 真幸 プロフィール

エヴェレットはあるとき、ピダハンたちが、何ものかが――たとえば人物が――視野に出現することと、視野から消失することに異様な関心をもつことに気づく。たとえば、カヌーが川の湾曲部からやってくると、村にいるすべてのピダハンが土手の縁にまで走っていって、カヌーを漕いでいる人物を見ようとする。エヴェレットははじめ、それは村に誰が来るのかを知りたがるごくあたりまえの好奇心の現れだと考えていたが、後に、その解釈を訂正した。カヌーが湾曲部を曲がって見えなくなると、子どもたちは一斉に「誰々が消えた!」と叫ぶ。ピダハンは、見られうる対象の出現と消失に興味があるのだ*12。なぜか。それが皆に見えるということ、今し方まで一緒に見ていたということ、このことが共同性の自己確認になっているからではないか。ここでの「誰々が来た!」「誰々が消えた!」は、「精霊が見えるぞ!」と同じ機能を果たしている。

ピダハン語には、交感的phatic言語使用がまったくないという。交感的言語使用とは、「おはよう」「さようなら」「ごめんなさい」「ありがとう」等の表現である。これらは、相手に何らの新しい情報をも提供してはいない。これらの言語使用の働きは、互いの間の人間関係を維持すること、あるいは他者を対話の相手として承認することにある。交感的言語使用がないため、ピダハンたちのコミュニケーションにおける表現は、命令・依頼のような実用的な目的のための発話を別にすると、主に、情報を求めるか(質問)、あるいは新情報を宣言するかのいずれかである。どうしてピダハンは、交感的言語使用の表現をもたないのか。宣言とともに指示されている対象への共同注意・共同志向性が、交感的言語使用と等価な機能を果たしているからである、と解釈すればよい。

 

ダニエル・エヴェレットの息子で、やはり言語学者になったケイレブ・エヴェレットは、父とともにピダハンの村で暮らしたときの思い出について書いている。子どものケイレブは、夜、しばしば「がなり合う大人たちの耳障りな声にふと目を覚ました」という。ピダハンは、夜通し、近所の人たちとおしゃべりする。何を語っているのか。彼らはそれぞれ、「見たばかりの自分の夢を言い合っていた」のであり、その「即興的なひとり語りに、あちこちから感想や意見がせわしなく飛んでくる」状況だったのだ。彼らのこの習慣は、夜には睡眠をとりたい訪問者には評判が悪かったが、年端のいかない男の子には、闇の怖さを和らげてくれて、心の慰めになった。「その声は、村の人々が緊張を解いていて、私には感じられてしまう不安を、彼らがまったく感知していない徴だった」*13

ピダハンは、どうして夢について語り合うのか。夢は、おそらく、精霊と同じようなタイプの対象である。夢はしかし、一人だけで見るものだ……とわれわれは思っているが、ピダハンにとってはそうではない。誰かが夢を見て、それを語る。その夢の中の出来事に対して、周囲の者たちが感想を言ったり、コメントを付したりすることで、彼らもその同じ夢を見たことになるのだ。夢への感想や意見は、精霊について口々に「(おれも)見えるぞ!」「見えるぞ!」と言い合うのと同じである。誰かが見た夢が、共同で目撃されており、そのことで、夜闇の中で互いの間のつながりが再確認されているのではあるまいか。

この解釈は、今度は父エヴェレットの報告から支持を得ることができる。ある日、エヴェレットは、隣人のイサアビに質問した。君はどうして明け方に唄っていたのかい、と。イサアビは、自分は「アイピーパイ」だったと答えた。アイピーパイとは、夢のことだ。彼らの夢は、われわれのそれとは違い、

現実の体験に数えられるのだ。人は、自分の夢の目撃者である。ピダハンにとって、夢は作りごとではない。目を覚ましているときに見える世界があり、寝ているときに見える世界があるが、どちらも現実の体験なのだ*14

目覚めているときの世界の中の事物が共同注意の対象になるのであれば、夢も同じ権利で、共同注意の対象となる。いや、夜通しの会話が示しているように、彼らは、夢の共同の目撃者になりたがっている。なぜなら――繰り返すが――、一緒に同じものを目撃しているということが、究極的にはそれだけが、彼らの間の共同性の証しだからである。

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