2021.07.20

精霊を見よ――ピダハン

「社会性の起原」92
大澤 真幸 プロフィール

「直接経験の原則」に結びついたことがらを、もうひとつだけ付け加えておこう。ピダハンの言語には、親族を表す語彙が極端に少ない。文化人類学者の調査の対象となるような原始的な共同体は、しばしば、親族の関係を豊富な語彙によって繊細に分節化するのだが、ピダハンは、これとは対照的だ。彼らの言語には、「親(親の親をも含む)」「同胞(同世代の仲間)」「息子」「娘」の四語(とやや例外的な子を広く指す一語)しかないのだ。どうしてなのか。一人の人物が(つまり話し手が)、誕生から死までの時間幅の中で直接に会う間柄としては、これらの語彙で示される親戚だけで十分だからではないか(たとえばほとんどの人は曽祖父に会うことはない)、とエヴェレットは推測している。

ピダハンが、直接的に経験したこと(だけを話すこと)に執着している理由は、「われわれ」には――啓蒙主義の時代の後を生きる「近代人」には――理解しやすい……と、そのように思える。ピダハンは、実証を重んじる経験科学者と同じ態度をとっているように見えるからだ。実証的な歴史学者であれば、新約聖書に書いてあるからといって、そのことをそのまま事実として受け取ったりはしない。歴史学者は、あの出来事を目撃した人は実在したのか、新約聖書の記述は、目撃した通りのことが正直に書かれているのかを問うだろう。ピダハンは、おおむね実証主義者と同じように――完全に同じではないがほぼ似たような考え方で――振る舞っているように見える。実際に見た人が語るならばともかく、見てもいない人が(同じように 見てはいなかったはずの未知の人物からの)伝聞の情報を語ったとしても、それをそのまま鵜呑みにできるだろうか、と。

このように考えると、しかし、ピダハンは、目に見えないものの存在を一切認めない、つまらない人のようにも思えてくる。彼らは、直接には知覚したり、感覚してはいないことがらについて、想像することの意義を認めないタイプの人、多分、一緒に会話をしても楽しくない人ではないか。そのように思いたくなる。

だが、このようなピダハン像は、前節の冒頭に引いた精霊イガガイーをめぐる大騒動とは齟齬をきたす。経験的な実証科学者であれば、あの川辺に何かが実在していた、ということを決して認めないだろう。実際、言語学者エヴェレットにとっては、あそこには何もいない。とはいえ、ピダハンは、目に見えない何かが存在すると想像しているわけではない。ピダハンは、何かが実際に見えるものとして実在していることを確信している。ならば、彼らは一種の幻覚を見ているのか。彼らは幻覚を見やすい「体質」の持ち主なのか。これも違うだろう。ではどう解釈すればよいのか。

 

精霊を見よ

答えを先に言ってしまおう。ピダハンたちに特徴的な行動、つまり彼らの「直接経験の原則」や精霊をめぐる騒ぎは、冒頭に述べた、共同注意についてのわれわれの理論によって、すべて首尾よく説明できる。

共同注意の対象は、私と(二人称的な)他者との間にひとつの関係を構築する。対象の存在は、その対象を志向的な相関項とする第三者の審級――私と他者とを包摂する第三者の審級――が措定されていることを意味しているからだ。何ものかが共同注意されていなければ、私と(二人称的な)他者との間には、――私にとっては――いかなる絆もないに等しい。私と他者の間には、架橋不可能な視差があるからだ*11。私と他者とが、それを同じモノとして見ているということが、私と他者との間にひとつの「関係」があることの保証になっている。しかし、同時に、共同注意の対象は、私と他者とが直接的に結びつくための障害物でもありえ、二人の間の関係の不可能性の条件でもある。

冒頭でこのように論じておいたわけだが、ピダハンたちの行動や態度は、共同注意に関するこうした理論を裏書きしている。順を追って説明しよう。

まず、次のように解釈できるだろう。精霊イガガイーを「見ろ!」「見るんだ!」と指示しあったり、イガガイーが「見えるぞ!」「見えるぞ!」と言いあったりしているとき、ピダハンたちは、自分たちが同じ共同的な関係性に内属していることを確認しあっている、と。私にだけ見えるわけではなく、皆に見えていること、このことの自明性が、彼らが互いに繫がっていることの保証になっているのだ。見られる対象が精霊でなければならない、というわけではない。精霊がこの機能にとって相対的に適切である理由は確かにあって、そのことについてはすぐ後に述べるが、原理的には、対象は何であってもかまわない。

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