2021.07.20

精霊を見よ――ピダハン

「社会性の起原」92
大澤 真幸 プロフィール

直接経験の原則

さて、エヴェレットは、ピダハンの集落に暮らし、彼らの言語について研究しているうちに、彼らの発話内容に顕著な特徴があることに気づく。ピダハンは、自分たちが直接経験していない出来事については決して語らないのだ*7。彼らの会話の内容や物語は、すべて直接経験した出来事だけを含む。遠い過去のことが語られることもないし、はるかな未来が話題になることもない。さらに、ピダハンの話の中には、空想の物語も存在しない。

現在形だけではなく、過去形や未来形の文もあるが、過去や未来は、発話の時点に直接的に結びついている限りでしか語られない。そのため――エヴェレットによると――、いわゆる「完了形」のようなものは、ピダハン語には存在しない。たとえば、「あなたが着いたとき、私はもう食べ終わっていたWhen you arrived, I had already eaten」という文は、ピダハン語にはありえない。前半の動詞「着いたarrived」は問題ない。「着いたこと」は、話している時点と直接関係している(発話時点との関係で、「すでに」起きたこととして規定される)からだ。しかし、「食べ終わっていたhad eaten」が非文法的である。なぜなら、「食べ終わった」というかたちでこの出来事を過去として規定する基準(現在)は、発話の時点そのものではなく、「着いた」時点だからである。つまり、「食べ終わっていた」は、発話時点との関係が、直接的ではなく間接的になるので、ピダハン語では許されない発話だということになる。

直接的に経験したことだけが語られる。誰の? 誰の直接経験か? もちろん発話者である。が、よく調べてみると、発話者に対して二人称的に対峙しうる他者の経験は、語られうる「直接的な経験」のうちに含まれる、ということがわかる。つまり、同じ共同体で一緒に暮らしている――いわば同じ現在を共有している――他者が経験したこととして話したこと、そのような他者から聞いたことは、自分が直接経験したことと同様に言及されうる。では、その仲間が死んでしまったらどうなるのか。だからといってその故人から聞いたことを一挙にすべて忘れてしまうというわけではないが、しかし、それはほとんど話題に上らなくなる*8。語られる「直接的な経験」は、発話者の経験および、発話者と同時期に生存している仲間の経験である。

 

エヴェレットは、ピダハンの言語と文化には、「直接的な経験ではないことを話してはならない」という制約、つまり「直接経験の原則」があるとする。ただし、注意しなくてはならない。これを、猥褻なことを語ることへの禁忌や差別語の禁止のようなものと似たような仕組みと考えてはならない。つまり、ほんとうは話したいのに禁止されているとか、ともすれば語りがちなことに対する規制ではない。ピダハンたちは、ただ自由に好きなように話しているのだが、直接的な経験の外には話題が及ばないのである。規制は、意識されてはいない。

直接的な経験に関するこうした原則があるがために、ピダハンには、――この種の伝統社会を参与観察する文化人類学者が一般に興味をもつような――創世神話や口承民話、あるいは歴史などが完全に欠如している。何らかの出来事についての物語はあるが、そのような物語が成立するためには、そこで語られていることを目撃した現存者がいなくてはならない。この世界が始まったときの出来事を目撃した者は生きてはいないのだから、創世神話はありえない。ピダハンの物語は――それが語られるためには――、生きた証人を必要とするのだ。

こんなエピソードが記されている。エヴェレットがピダハンたちを訪問した目的は、言語の研究だけではない。もうひとつ目的があった。「伝道」である。エヴェレットはクリスチャンで、アメリカの福音派教会から経費と給料を得てアマゾンの奥地に入っていた。彼は、キリスト教の神を信仰することにともなう倫理や文化を受け入れるように、「ピダハンの心を変える」という使命を負っていたのだ。だが、伝道は完全に失敗する。エヴェレットがイエスについて語り出すと、ただちにピダハンは訊いてくる。そのイエスという男はどんな容貌で、その肌は何色なのか、等と。エヴェレットが、イエスはずっと昔に生きていた人で、自分は実際には見たことはないのだが、彼の言葉はもっている、と答えると、ピダハンはこう言う。

「なあ、ダン。その男を見たことも聞いたこともないのなら、おまえはどうしてそいつの言葉をもってるんだ?」*9

そして、ピダハンたちに、はっきりと宣言される。もしエヴェレットが「その男」を文字通り実際に見たわけではないのならば、その男についてエヴェレットが語るどんな話にも興味がない、と。エヴェレットと最も親しいピダハンであるコーホイからは、あらたまって次のように言われたこともある。「おれたちはおまえが好きだ。おまえはおれたちといていい。だがおれたちは、もうおまえからイエスの話を聞きたくない」*10。イエスの話は、単におもしろくないだけではなく、不快なのだ。

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