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小説も書く「実践の哲学者」が説く勉強の役割 千葉雅也の思想を読む

ノリの束縛から逸脱せよ
『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』『勉強の哲学――来たるべきバカのために』で話題を呼び、小説『デッドライン』『オーバーヒート』がともに芥川賞候補になるなど、小説家としての顔も持つ哲学者・千葉雅也。彼の思想を一貫して特徴づけるものは、いったい何だろうか。新刊『日本哲学の最前線』から、哲学者山口尚さんによる『勉強の哲学』の解説の一部をお送りする。

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偶然性の活用は勉強の効率性と創造性を増す

『勉強の哲学』は《いかにして非意味的切断(※)の「善用」を行なうのか》のひとつのやり方を語る。勉強は、意外かもしれないが、本質的な点で意図のコントロールが役に立たない。

(※)非意味的切断:中毒・愚かさ・失認・疲労・障害などの〈主体の意図の外部のファクター〉によって行動が中断されること

なぜなら《いま取り組んでいる勉強が自分をどこへ連れていくか》は勉強する者にとって前もって知られないからである。それゆえ勉強は〈自分の求めていたものを得る〉という行為ではない。

むしろそれは〈そうでなかった自分に成る〉という生成変化である。そして――後で見るように――自己変容の過程にとって偶然性の波に乗ることは無視できない有用性をもつ。

こうした点を千葉は理論的に説明する。その議論を追うに先立ち、《勉強と非意味的切断がじっさいに関連している》という事実を具体的次元で予備的に確認しておこう。

例えば「勉強の完璧主義者」は一冊の本を最初から最後まで通読しようとするかもしれない。とはいえこれは勉強を「苦行」にしてしまう。なぜなら、例えば教科書は内容の豊富さからそもそも通読が困難であるのが常であり、敢えてそれを読み通そうとすれば〈楽しくない読書〉を行なうことになるからだ。

さらに言えばそもそも「通読」という観念も怪しい。これについて千葉曰く、

読書と言えば、最初の一文字から最後のマルまで「通読」するものだ、というイメージがあるでしょう。けれども、ちょっと真剣に考えればわかることですが、完璧に一字一字すべて読んでいるかなど確かではないし、通読したにしても、覚えていることは部分的です。
通読しても、「完璧に」など読んでいないのです。

要点は決して《だからイイカゲンに読めばいい》ということではなく、むしろ《完璧主義のために勉強が苦行になったら本末転倒だ》ということ。勉強を続けていくためにはできる限り楽しくする必要がある。 

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そして――多くのひとが経験から知るとおり――勉強においては、一冊の本をある程度読み進めて「これ以上は行けないな」と感じると別の一冊へ向かう、というやり方のほうが享楽は多く意欲も持続する。もちろんノッてきて一冊の本に数週間付き合うという場合もあるにはあるのだが、「これを読み切ってから次へ進むぞ」と決意することは不要な自己束縛になる。

 

勉強と非意味的切断の連関

だがなぜそれは不要なのか。その理由は、本は現実にいろいろな原因によって読み進められなくなる(しかも頻繁に!)、という点にある。

例えば同じ話題に飽きてきたとか、本の個別部分への関心が膨らんで他の本が読みたくなったとか。それゆえ、勉強を続けるには、〈不意に読めなくなったときに軽快に中断してとりあえずイケる本を開く〉という柔軟な姿勢――すなわち非意味的切断を受け入れる姿勢――こそが重要になる。

偶然性を嫌わないこと。そして偶然性が却って面白いものを生み出すのではないかという希望をもつこと。こうした態度は勉強の効率性だけでなくその創造性も増しうる。

――以上が勉強と非意味的切断の連関を例示するひとつの具体的ケースである。

他方で『勉強の哲学』は、より原理的な議論を通じて、〈偶然の波に乗る勉強〉のイメージを彫琢する。すなわち千葉は、「言語」の機能への反省および「ユーモア」の重要性の確認を踏まえて、自身の根本的な勉強観を提示する。

以下、その議論を一歩ずつ確認しよう。

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