「戦争」から「平和の祭典」へ。昭和を生き、戦い続けた「元・三四三空」隊員の戦後

「三四三空」の実像を追う・第2回後編
神立 尚紀 プロフィール

皇統護持作戦に参加

山田はこのとき、満22歳の誕生日を目前に控えていた。

そして、東京で皇統護持の任務を授けられた源田司令が大村基地に戻り、8月19日、部隊解散の訓示ののち、皇統護持の同志を募るため、司令とともに自決と称して隊員たちが集められたことは、拙稿『【戦後秘史】秘密裏に36年間も遂行されていた皇統護持作戦とは?』)で触れたとおりである。山田も、この場に参加していた。

皇統護持の密命をうけた源田大佐以下三四三空の有志23名は、ただちに行動を開始、それぞれの役割にしたがって、ほうぼうへ散っていった。山田も、行在所の候補地をもとめて、九州の山中を歩きまわった。しかし、山田たち末端の実行部隊には、皇族の誰をかくまうなどの、具体的な話は何も聞かされなかったという。

昭和20年7月末、鴛淵大尉戦死後の三四三空戦闘七〇一飛行隊。大村基地にて。前列左より2人めから、山田良市大尉、源田實大佐、志賀淑雄少佐。

そして、翌昭和21(1946)年1月には、メンバーの数名とともに、活動拠点として長崎の川南工業に就職する。山田が川南工業にいたのは1年半ほどのことだったが、その間にも情勢はめまぐるしく動いていた。マッカーサーが天皇を認める姿勢を明確にし、天皇が戦犯として訴追されるおそれもなくなり、日本国憲法で象徴天皇が明記されたことで、皇統護持作戦は事実上、意味を失った。

「ぼくはそのあたりあっさりしてますから。皇統護持作戦の目的はもうなくなった、そう思って、源田さんに『お世話になりました。東京に出ます』と。源田さんはなにも言いませんでした」

 

戦後の山田良市

東京に出た山田は、知人の水産会社を手伝ったが一年で倒産。その後、映画館の渋谷東宝、荻窪文化劇場の支配人をつとめ、さらに建築会社勤務を経て、昭和29年、航空自衛隊が発足すると即座に志願、旧軍での階級(大尉)に相当する一等空尉で入隊した。

「戦後9年間、いつも飛びたい、飛ぶなら戦闘機、と思い続けていましたから。戦争が終わったあとも、いつかまた空を飛べるようになると信じてました。そのために英語を身につけようと、映画館でシナリオを買って、休みの日は朝から晩まで洋画を見て、英語を勉強しました」

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