「戦争」から「平和の祭典」へ。昭和を生き、戦い続けた「元・三四三空」隊員の戦後

「三四三空」の実像を追う・第2回後編
神立 尚紀 プロフィール

誰からも慕われていた

鴛淵孝大尉は大正8(1919)年、長崎県生まれ。海軍兵学校68期、飛行学生36期を経て戦闘機搭乗員となり、第二五一海軍航空隊分隊長としてラバウルで、第二〇三海軍航空隊戦闘第三〇四飛行隊長としてフィリピンで、それぞれ激戦を戦い抜き、昭和19年末、源田司令の指名で三四三空戦闘第七〇一飛行隊長に発令された。当時、満25歳だった。

 

「一緒にいたのは正味7ヵ月ほどでしたが、地上では温厚明朗、ぼくと4歳ぐらいしかちがわないのに、こうも人間ができるのか、と驚くほどの人物でした。頭もよく、上からも下からも信頼され、慕われていましたね。

部下の指導はしても、怒ったところを一度も見たことがありません。ぼくはその逆、ガミガミ言うほうだったから、いつも『君は鬼分隊長、俺は猫隊長』なんて言われてました。

タイプでいえば、長嶋茂雄と加山雄三の若い頃を足したような雰囲気で、眉目秀麗、特に目がきれいでした。ところが、いったん空に上がると勇猛果敢、じつに負けず嫌いでしたね。

飛行学生のとき、朝早くに起きて整備員と一緒に暖機運転をやらされるんですが、隊長は、実施部隊でもずっとそれを実行していました。

『分ちゃん(分隊長)、俺は毎朝出てんだぞ』

と言われ、一度だけ早起きしてやってみたけど、こりゃいかん、こんなことしてたら俺、死ぬ、とても付き合ってられん、と思って、

『やめました。悪しからず』

そういうこともありました。とにかくぼくとは正反対の性質でしたね。

女性も知らないまま戦死したはずです。でも、品行方正だけど堅苦しくない。士官どうしの猥談、ぼくらは『ヘル談』と呼んでましたが、それにも話の輪に加わっておもしろそうに聞いたりしてたから、興味がなかったわけじゃない。育ちがよかったということです。

ほんとうに、あれだけよくできた人とはその後もなかなか出会えません。誰もが理想とする海軍士官像、というか。

――でも、そういう人が結局、早く死んじゃうんですね」

鴛淵大尉が戦死して6日後の8月1日、勇猛果敢で知られた戦闘三〇一飛行隊長・菅野直大尉も戦死。昭和20年8月15日、終戦の詔勅が発せられ、日本の降伏という形で戦争は終わった。

昭和20年、三四三空当時の山田良市大尉。

「終戦を知ったときは、『やっぱり負けたか、もうやめるのか』と思ったですね。そのときは、全体の状況がわからないもんだから、まだやれるのに、という気持ちもありました」

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