山田良市。左は昭和19年、海軍飛行学生の頃。右は平成8年、自宅にて(右写真撮影/神立尚紀)

「戦争」から「平和の祭典」へ。昭和を生き、戦い続けた「元・三四三空」隊員の戦後

「三四三空」の実像を追う・第2回後編
太平洋戦争末期、新鋭機「紫電改(しでんかい)」を主力機として、日本本土に押し寄せる米軍機を迎え撃った航空隊があった。司令・源田實(げんだ みのる)大佐が率いる第三四三海軍航空隊(剣部隊)である。
人々はなぜ三四三空に惹かれるのか、筆者の四半世紀にわたる当事者へのインタビューをもとに考察するシリーズの第2回は、中堅の指揮官として終戦まで戦い、戦後は航空自衛隊で、昭和の東京オリンピック開会式の日、上空に五輪の輪を描いたブルーインパルスを地上から指揮した山田良市大尉と、義兄でもある隊長・鴛淵孝大尉の話である。
第2回の後編となる今回は、鴛淵孝大尉の戦死と、山田良市大尉の戦後の軌跡について語る。
(前編はこちら→<【前編】1964年東京五輪の開会式で「ブルーインパルス」を指揮した元「紫電改」の戦闘機乗り>
 

鴛淵孝大尉の戦死

そして7月24日。この日の空戦で、それまでつねに先頭に立って戦ってきた戦闘七〇一飛行隊長・鴛淵孝大尉が戦死した。

名戦闘機隊長と謳われた鴛淵孝大尉(写真は中尉時代)。昭和20年7月24日戦死。山田はのちに、鴛淵大尉の妹・光子と結婚する。

「朝、出撃前に整列、敬礼して飛行機に搭乗するときに、いつもと同じ隊長の白いマフラーが、やけに印象に残った。べつに悲壮な顔もしてないし、様子がおかしいわけじゃないんですが、ありゃ、この人死ぬんじゃないかとふと思ったんです。

こちらは21機。佐田岬上空に出たときに、呉の空襲から引き揚げてくる敵の大編隊、200機いたか300機いたかわかりませんが、延々と続く大編隊を発見、その最後尾の編隊に突入しました。

この日は、戦闘三〇一(6機)の指揮官は松村正二大尉、戦闘四〇七(7機)は光本卓雄大尉で、総指揮官が戦闘七〇一(8機)の鴛淵大尉です。このときは三〇一が上空支援にまわり、七〇一と四〇七がまず突撃、たちまち激戦になりました。

ぼくは4機を率いて、鴛淵隊の後方500~1000メートルのところについていました。2撃めまでは一緒でしたね。しかしなにしろ、敵機の数が多すぎる。ぼくも4~5機の敵機に取り囲まれ、機銃を撃つには撃ちましたが、命中したかどうかわかりません。

空戦しながら、隊長機は?と見ると、いつもついている二番機の初島二郎上飛曹機と2機で、敵の2機を追っているところでした。

『あっ、深追いしなきゃいいけどな……』と思ったんですが、これが隊長機を見た最後になりました。

大村基地に戻ると、やはり隊長は還ってこない。夕方まで飛行場で待ってみたんですが……。胸のなかにポッカリと大きな穴があいたような気持ちでした。

ぼくは歌が苦手でね、いまでもカラオケなんか大嫌いで歌を歌うことなんてないんですが、このときは、〈あの隊長もあの友も、壮烈空に散ったのに、不覚や俺はまだ生き延びて……〉(「海鷲だより」作詞・作曲者不詳)という歌が、自然に口から出ました。しばらく口ずさんでたおぼえがありますよ」

この日は鴛淵大尉機をはじめ、6機の紫電改が還らなかった。

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