2021.07.02
# 野球

広島東洋カープが「消滅」していた可能性…存続を決めたのは「選手の退職金」だった

プロ野球・裏面史探偵(7)

最初の資金集めから難航

親会社を持たない広島カープが球団解散の危機に見舞われたのは1950年の年が明けた頃である。前年からセ・リーグに参加した広島は41勝96敗1分け、勝率2割9分9厘で予想通り最下位(8位)に終わった。

市民球団として発足した広島は、最初の資金集めから難航した。当初の株式公募は1年目のシーズンの1950年4月25日までだったが、株式会社広島野球倶楽部創立準備委員会は証券取引委員会あてに有価証券募集変更通知書を提出し、期間を5月20日までに変更した。4月末までに集まったのは、わずか600万円だった。

大口の対象だった県、県下の都市は年度末で出資の議決に間に合わず、選手獲得もままならなかった。資金不足により広島野球倶楽部(資本金2500万円)の株式会社としての正式な発足は1952年4月3日まで待たなければならなかった。加盟が承認されてから1年が経っていた。

さらに言えば当時のプロ野球には「7対3ルール」なるものが存在していた。試合収入は勝者が7、敗者が3の比率で分けられていたのだ。

弱い広島は十分な収入が見込めなかった。加えて赤字を補填してくれる親会社もない。

画像はイメージです[Photo by iStock]
 

危うく、吸収合併されかけた…

シーズン中はともかく、オフシーズンは試合がないため、選手に給料を支払うこともできない。それでなくても選手の給料は前年の5月から滞ったままだった。

広島の1期生に長谷部稔という人物がいる。1931年10月15日生まれの89歳だ。当時の球団経営がいかに厳しかったか。私は当人から直接話を聞いたことがある。

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