山口組に襲撃されたジャーナリスト、消えた犯人の足取り

喰うか喰われるか 私の山口組体験(2)
自らを刺傷され、息子までが襲われる――。日本最大の組織暴力と真っ向立ち向かい続けた溝口敦氏による、半世紀にわたった戦いの記録『喰うか喰われるか 私の山口組体験』から注目章を短期連載。

警察の犯人捜しが難航するワケ

集中治療室には6日間入れられていた(※襲撃の一部始終は前回記事にて)。

ベッドに寝ていると、時間が無限に遅く流れると感じた。気になったのは犯人が私を刺して目的達成と思ったのか、それともやり損じた、命を取れなかった、再挑戦だ、と考えているかだった。

※画像はイメージです。Photo by iStock

私はたぶん前者だろうとは思ったが、実際に被害を受けた後のほうが山口組を不気味に、怖く感じた。しかし、山口組に怯えないことが被害者として、私の社会的責務だとも感じた。被害者であることは格好悪いが、だからといって声を上げないのは卑怯だろう。攻撃を受けた以上、騒ぎ立てるのが私の義務なのだ。

 

集中治療室ではタバコを吸えなかった。こっそり隣の給湯室に行き、ガスの点火口はないか、探したが、火の気はまるで見つからなかった。タバコは諦めた。刺されて腹が立ち、そういうことなら刺されたことを記念して、このまま禁煙してやろうと考えた(このとき禁煙を4ヵ月続けたが、崩れ、タバコ吸いに舞い戻った。だが、再挑戦していまは成功している)。

集中治療室は面会謝絶だが、私は入って3、4日目ごろから警視庁捜査四課の係官に事情を聞かれた。私には犯人は自明だった。山口組以外の者であるはずがない。

「山口組からの脅しの一部はテープにも録ってある。それを警察にも提供する。聞いてみればいい。山口組の犯行とわかるから」

私は妻にも言って、現実にテープを提供したが、警察はテープを聞き、それだけでは証拠が弱いと考えたようだ。私についてあらゆることを調べようとした。終いには警官たちは私が刺されたという事実さえ疑っているような気がした。私は頭に来て、面と向かって警官に質した。

「じゃ、私が自分で自分を刺したとでも思ってるんですか」

「いや、それはない。調べた結果、あの傷の位置は自分では刺せないとわかった。あんたが傷口を押さえて歩いたという道からも一滴だけだが、ルミノール反応が出た。しかし、7時前という時間帯にもかかわらず、不思議なことに、逃げていった犯人を目撃した人間が出て来ない。

とはいえ、あんたがだれかに刺されたのは間違いない。しかしあんたが恨みを買ったのは山口組だけじゃないかもしれない。我々はあらゆる可能性をつぶして歩かねばならない」

私は基本、疚しいところを持っていない。何を調べられてもいいが、なぜこれだけの状況証拠がありながら、警察が山口組という本丸を攻められないのかイライラした。縷々事情を説明した後、「もうこれ以上、お話しすることはないよ」と強く言ったことさえある。

6日目に集中治療室から個室に移された。と、それまで病院にストップをかけられていた見舞客が20人ぐらい来た。全部にお会いしたが、なかで三一書房の畠山滋社長が変な慰め方をした。

「著者が襲われるというのは珍しい。『風流夢譚』で中央公論社社長宅が右翼の襲撃を受けたといっても、著者の深沢七郎は結局、逃げ切ったし。そういう意味で今回の事件は日本の出版史に残りますよ。我々としてはせいぜい本を売って、溝口さんにたくさん印税をというのが務めです

病室のドアの前には戸塚署の警官2人が寝ずの番で詰めてくれた。大変な努力を払ってくれたものだが、一つに、警視庁での記者発表のとき、知り合いの警視庁詰め記者何人かが「事件は暴力で言論を抑圧する大きな問題であり、警視庁はしっかり取り組むべきだ」と言ってくれたおかげらしい。退院後、知り合いの記者からそう耳にした。

だが、個室で寝たのは1日だけで、次の日には手術の糸も抜かぬまま退院になった。私は背中を刺されたが、脇腹が変に凹んだまま腹に痺れ感があった。

順調に回復していたことは間違いないのだろう。女子医大病院は、私の自宅近く、立川の病院を紹介して、そこに通院して治すよう指示した。女子医大病院とすれば、警官がウロウロするような患者を敬遠したかったのかもしれない。

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