自ら刺傷されたジャーナリストが明かす、山口組対一和会抗争の内実

喰うか喰われるか 私の山口組体験(3)
自らを刺傷され、息子までが襲われる――。日本最大の組織暴力と真っ向立ち向かい続けた溝口敦氏による、半世紀にわたった戦いの記録『喰うか喰われるか 私の山口組体験』から注目章を短期連載。

一和会大幹部たちの飾らない生態

山口組四代目の竹中正久はその年、85年1月に一和会の手で殺されたばかりだったし、山口組対一和会抗争の火の手は燃えさかる一方だった。末弟の竹中武は岡山の竹中組を率い、正久の死後、姫路の竹中組の面倒も見て名実ともに正久の後継者だったが、岡山県警は竹中武をシャバに放っておくと報復攻撃がよけい激化すると見たのか、85年2月、野球賭博の容疑で武を逮捕、以後勾留を続けてシャバに出さなかった。

竹中正(左)と武兄弟。竹中正久の墓前にて(撮影:眞弓準)

私は竹中正に竹中正久一代記の企画をぶつける機会がないまま山一抗争の取材を続け、依然、一和会の幹部たちにも会っていた。同年8月末、「週刊ポスト」の企画で一和会の幹部たちに抗争について座談会で語り合ってもらおうと考え、神戸・元町駅の近く、一和会本部下の中華料理店に行った。

一和会の常任顧問・白神英雄(白神組組長)には、座談会についてすでに内諾を得ていた。店には当時の白神夫人だった女性が待機していた。彼女とは大阪ミナミの白神宅で何度も顔を合わせている。大学だか短大だかを出たばかりの若々しい女性である。白神は1923(大正12)年生まれで、当時62歳。夫人とは40歳前後年が違うが、それでも夫人は甲斐甲斐しく白神に仕えていた。

30分ほど彼女と雑談していると、上の一和会本部から白神が降りてきた。3人でタクシーを捕まえ、新神戸駅近くの北山悟(一和会組織委員長、北山組組長)宅に行った。ここにはすでに一和会幹事長(佐々木組組長)佐々木道雄が先着していた。3人とも一和会の錚々たる幹部である

だが、佐々木は座談会を開くことに難色を示した。私はそれまで佐々木には何回も会い、彼の気性は承知しているつもりだったが、佐々木には仕切りたがり屋の向きがあり、何が気に障ったか、急に座談会に反対し出した。佐々木はこの年4月、山口組には伝統的暴力指向と開明的知能指向の二要素があり、田岡一雄の未亡人フミ子は時代に逆行して、暴力指向の竹中正久を四代目組長に選んだとする手記を「週刊現代」に発表していた。

 

一和会の理論派と言えば理論派と言えるかもしれない。たぶん佐々木は、このころ一和会副会長兼理事長、加茂田重政がメディアに華々しく登場して賛否こもごもさまざまな反応を引き起こしていたから、またまた目立つことを重ねたくなかったのだろう。

私は最初からこの「座談会」に期待していなかったから、ダメならダメでいいと無理押ししなかった。今回はムダ足になった出張と諦め、雑談で流したのである。

佐々木は白神と、同席していた白神夫人に面と向かって言いたい放題を言った。自分(佐々木)は白神の五代に及ぶ夫人たちを歴代すべて見てきたが、過去の白神夫人たちは全部若くて美人、今回のあんたが一番ブスだと断定した。白神も白神夫人も佐々木のセリフを顔色一つ変えず聞き流していたが、内心は腸が煮えくり返る気持ちだったと思う。一般的な目からすれば、白神夫人は若く、かわいい顔立ちの女性だった。決してブスではない。

このとき北山悟のたぶん大学3、4年の息子が出てきて、佐々木に「おじさん、ぼくの就職先、探してよ」と言い出した。私は、へー、大物ヤクザの倅にもこんなことがあるんだと驚きを感じた。考えてみれば、大幹部の息子も年頃になれば就職しなければならない。当たり前のことではあったのだが。

以下、事のついでに、このとき私が見聞きした幹部たちの飾らない生態をご紹介しておこう。たんに私が覗き見した下世話すぎる話だが、世間にこの手の話はあまり伝わっていないように思える。

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