イラスト/植田たてり

「信じる」という営みの根底には、「聖なるものへのあこがれ」がある

「宗教の本質」とは? 往復書簡 第二信・B
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い、当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について、往復書簡で意見を交わす。今回は、釈氏の第二信・Aを受けた、若松氏からの書簡を公開する。

第一回はこちら

 

遠藤周作、内村鑑三、新渡戸稲造

ご返信ありがとうございました。「信」あるいは「信じる」は、宗教とは何かを考える原点であり、同時に極点であることが、これまでに頂いた言葉でも十分に感じられました。

親鸞研究と念仏の話は、とても興味深く拝見しました。お書きくださった方のように、念仏をする気がないと断定する人物は多くないでしょうが、念仏を忘れてしまうという人は現代では少なくないようにも思います。宗教が学ぶだけの対象になり、生きる何かではなくなりつつある。

宗教の火花はあまり問題にされず、宗教学の言葉だけが独歩するようになっているのも否めません。『新約聖書』も『歎異抄』も言葉を超えたところに何かがあることを忘れてはならない、と警鐘をならしているのですが、現代人はますます言葉の世界に迷い込んでいるようにも思われます。

宗教は、あるところから「知る」だけでなく、「生きる」ことを求める。むしろ、あたまで「知る」という営みを鎮めることすら求めることもある。ここでいう「生きる」とは、全身全霊による参与を指します。それも意識的、意志的に何かをなす、というよりも不可避的に、そう与することを求められる状態を意味します。

意志のちからは強靭です。これを見過ごすことはできません。しかし、宗教の本質は、意志をも包み込む何かとの出会いによって現実になる、ともいえるようにも思います。

宗教を合わない「衣」としてお書きくださったところでは、遠藤周作を想い出しました。今年で彼が亡くなって四半世紀が経ちます。彼はしばしば、自分にとってのキリスト教をからだに合わない洋服だったとし、生きることでそれを自分に合ったものにしていかねばならない、と語っていました。

同質の実感は内村鑑三や新渡戸稲造といった明治・大正期に日本的キリスト教の可能性を世界にむけて、英語で語った人物にもはっきりと感じることができます。内村と新渡戸は親友であり、盟友でもありましたが、二人がともに宣教師によって輸入され、押し付けられたような霊性をそのまま受け止めることはできないと一度ならず語っています。遠藤周作を含め、彼らにとって信仰とは、論じる以前に自分で歩いてみなくては始まらない道程だったのです。

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