2021.06.20

無限判断的な飛躍

「社会性の起原」91

「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。講談社のPR誌『本』に掲載されていましたが、85回からは場所を現代ビジネスに移し、さらに考察を重ねています(これまでの連載はこちらからご覧になれます)。

責任の原初形態

道徳の要件である「公平性」の感覚が、相互行為する二者の間に発生するためには、彼ら二者のどちらの視点にも還元されない「第三の視点」が必要になる。つまり「1+1=3」という等式が成り立っていなくてはならない。いかにして、この等式が――初期人類(ハイデルベルク人)において――実現したのか。この等式を可能なものにしているのは、いかなるメカニズムなのか。

第三の視点が確かに働いている、ということを、幼児を対象とした実験を振り返ることでもう一度確認しておこう。たとえば、幼児は、共同の作業で獲得された報酬が均等に分配されない状態を受け入れない。一方の子が多くを取ろうとすると、他方の子は抗議するのだ。抗議された側も、この抗議の正当性を認め、たいてい最終的には均等な分配が成立する。二人一組の、一方に最後通牒提案権を、他方に諾否の選択権を与えるいわゆる「最後通牒ゲーム」でも、選択側の子どもは、公平な提案でなければ――たとえ報酬が無になっても――拒否する。そもそも、提案側にまわった子どもも、大人の場合と同様に、自分の報酬だけを多くしようとはしない。報酬を等分する案が示されるのが普通である。

これらの実験やゲームにおいて働いている心理は何か。同情心か。わずかしか得られなかった者の不幸や不快に対する同情が働いているのか。実際、こうした行動において働いている主要な感情は、広い意味での同情だと見なされてきたが、それはまちがっている*1。同情心からは、高い蓋然性で均等な分配が生じたりはしない。他者の不幸への同情は、自分自身の苦痛よりも一般には小さいからだ。

関連している感情は、同情よりも、一種の怒りである。何に怒っているかが重要だ。報酬の少なさが怒りの原因ではない。報酬の多寡が問題ならば、最後通牒ゲームで、プレイヤーは(報酬ゼロ以外の)任意の提案を受け入れるはずだ*2。報酬が(均等に分割した場合より)少なかった子どもが怒っている原因は、(相手に)自分に対する敬意が欠けていたことにある。「均等」分に値するものとして自分が尊重されなかったことへの怒りが、抗議の行動を動機づけている。抗議を受けた側も、この怒りを「もっともなこと」と感じている。だから、最初は自己利益の極大化を図ろうとした者も――たとえ自分が身体的にはより強かったとしても――、たいてい抗議を受け入れ、均等な分配に同意することになる。

〔PHOTO〕iStock
 

問題は、どこから見たら、相互行為している二者が平等な尊重に「値するもの」として現れることになるのか、であった。答えは、前回述べたように、「第三の視点から」ということになる。二者を外部の超越的な位置から捉えたとき初めて、両者は、完全に対等な扱いにふさわしいものとなる。関連する実験の被験者は、おおむね、三歳以下の子どもである。二歳から三歳程度の子どもたちは、彼らの間の相互行為において、すでに「第三の視点」を前提にしている。そしてわれわれの推測では、彼らの能力は、ホモ・サピエンスへの系譜とネアンデルタール人の系譜が分岐する直前あたりの人類の行動と対応している。彼らの行動が、「第三の視点」を活用していることは確実であるとして、問うべきは、それがいかにして可能だったのか、である。「第三の視点」を可能なものにしているのはいかなる機制か。

これは――前回述べたように――、最終的には、抽象力に依拠して解明するしかないことだ。だが、もう少し手がかりとなる実験的な事実を検討しておこう。われわれはダイアドdyad(二者)関係、つまりフェース・トゥ・フェースの二人称の関係の中で発生している、原初的な道徳についていま考察している。前回、三歳児が、二者の協調行動における「役割」を習得する過程で、「第三の視点」を援用しているということを証明する実験(グレース・フレッチャー等による)を紹介しておいた。この協調行動が実現を目指している目標は、二者の共同目標joint goalになっている。この目標へのコミットメントを含め、協調行動に関与している諸対象への志向性(〜についての意識)はすべて「第三の視点」に帰属するものであり――つまり「第三の視点」にとって有意味なものであり――、まさにそのことにおいて、両者の共同志向性となっている。

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